自分の受け持ちの授業は全て終わっていたが、ちょっとした用事があって教室を覗きに行くことにした。
後回しにしても良かったはずなのだが、『蟲』という奴がどうしても今行けとせっついてきたのである。
第六感に類する物は持ち合わせていないがうずうずするのを押さえ込んでおく方が余程身体に悪そうなので仕方なくその『知らせ』に従ったのである。

———これで何も無かったら金輪際蟲には付き合わない。
そんな風に思いながら。



派手な色の廊下を歩いていると何やら騒がしい声が聞こえる。
反射的に身構えて銃に手をやった自分に『妙なプロ意識を身につけた物だ』と呆れ半分絶望半分。
しかし何とも言えない殺気のような物を感じたのは確かだった。
蟲も適当に知らせてきたわけではない、ということなんだろうか。

何事かと伺うためにそっと扉を開く。右手はホルスターに添えたまま。
(もし自分の監督下でまずいことになってたら煩わしいなぁ)
本音はそんなものだ。
真面目な新任講師ではあるがオフの時間帯にまで仕事を持ち込みたく無い人間でもある。
もしイメージの乖離があるというのなら、それは多分に思い込みという物だろう。

さっと視線を滑らせてみる。
人影が二つ。どうやら勝呂君と兄がその発信源だったようだ。
ほっと溜息を吐いて肩の力を抜く。特に問題は無かったようで何より。
(———そして、蟲。やっぱり取り越し苦労だったじゃないか)
独り身中の敵に文句を言う。


「お前実は良い奴だな!」
「実はは余計や。俺ほど良い奴なんて他におらへん位の勢いで俺はええ人間やで」
べしべしと肩を叩く兄と、鼻を高くする勝呂君。
「すげぇな。超格好いいな!」
「ふ、ふふん、どないやねん」
「おお、すげーよすげー」

何をやっているんだか、と思いながら眺める。しかしそう思いながらもどこか口角が上がるのも感じている。
多分、無理に埋め込んだ保護者としての眼差しが僕にもあるからだろう。
『兄にとっては初めて出来た友人なのだから、はしゃぐのも無理はない。これでやっと、安心して目を離せる』
そう思ったのも確かだし———

一方で今まで自分だけが知っていたような部分も人に見せるようになるんだなぁと思うと面白くないのも事実だった。
兄離れできていない。全く、これっぽっちも。
いつまでも後ろを付いて歩かせてもらえる訳じゃないんだからと死にものぐるいで兄の前を走っていたつもりだったが、
あくまでもそれはつもりに過ぎなかったようだ。
どこまでも兄に甘えている自分が見えたようで何だかばつが悪い。
どちらかが本音でどちらかが建前なのかもしれない。でも、実感としてはどちらも本音、なのだ。
当然比率の差はあるけれども、思考の何割かを占めていることに変わりはない。
おそらくそういうダブルスタンダードのせいで余計に気疲れしているのだと言う事は解るのだが、解れば即ち治せる、という訳でもない。
人間とは実に面倒くさい。


取り敢えず頭を冷やすことも兼ねて出直すか。
そう思って振り向いたら、それはそれはこの世の物とは思えないような屍体の目をした男が視界に這入り込んだ。
遠目から教室の中心の二人を見てにこにこと笑い、
笑っているのだが、
目が完全に死んでいる。

目は口ほどに物を言う。正に。
嫉妬心でもない。悲しみでもない。安堵でもない。幸福では有り得ず、憎悪でもあり得なかった。…虚だ。
男の目には底の知れない虚しかなかった。ずぶずぶと沈み込んで、決して出てこられないような、そんな虚。
漠たる牢獄。事象の地平線。光すら、出てこられないような。
(可哀想に)
何よりもまず、そう思った。
(そんな目で見ても、どうにもならないのに)
道化の面を被り切るにはまだ随分と大根役者だ。慣れるまでは、もっと楽な面を選べば良いのに。
背後の嬉々とした響きに重い溜息を吐き、
「志摩君、ちょっとお時間良いですか?」
自分からは極力声を掛けない、という暗黙のルールを破った。
「…あ、え? …ああ、良いですけど…」
はっとしたようにこちらを見て、先ほどの自分と同じくばつの悪そうな顔をする。
気付いている。理屈では解っている。でも、そこから先は手の施しようがない。
同病相憐れむとはよく言った物だ。
痛いところも、症状も、罹患しなくては解らないものなのだ。

「そんな目で見て良い物じゃないでしょう」
他の誰にも聞こえないように、耳元で掠めるように言った。息をのむ音が聞こえる。
「ねぇ、志摩君? 珈琲でも飲みますか」
すぐに身を引いて普段通りの言葉を発する。
けれど、これは一種の符牒のようなものなのだ。
「どちらかって言うと日本茶がええなぁ」
文字通りお茶を楽しむ仲、というのでも無い。残念ながら。
別に何回かに一回はぼんやりと雑談している日もあるだろうが、打率は低い。
一つ言い訳しておくと、僕のせいではない。
じゃあ志摩君のせいになるのかと言われればそうでもない。
多分、環境、という奴が一番どうしようもない原因なのではないか。
身の回りの環境。空気。雰囲気。
そういうものに流された方が楽だと思ってしまう二人であることも、やっぱり『環境』の一部だろうか?

「では、そうしましょうか」
合図するまでもなく揃って部屋を出る。


なるほど、知らせを寄越したのはこの男だった訳だ。
「蟲の知らせって言いますけど、やっぱりそういうのって有るんですかね」
「虫!? 先生今虫って言いました? どこに居るんですか、ちょっと、」
ぎゃあぎゃあと喚きながら空気と格闘している。
人の話をきちんと聞かないからそういう事になるんだ。
呆れつつ、でも『他人』の話になんて構っていられない気持ちもよく分かる。寧ろ分かるから、連れ出したのであって。
「中ですよ。…頭の中」
ぎゃ、と潰れたような悲鳴を上げて飛び退った。
「え、そんな、先生大丈夫なんですか」
完全におぞましい物を見る目である。
「…志摩君…取り敢えず研究室に着いたら珈琲淹れますから、少し落ち着きましょうか」
大袈裟に溜息を吐いて見せたら、いくらか落ち着いたらしい。
「あの…なんやえらい済みません…」
「構いませんよ。一応あなたの講師ですから」
それに、他人を見ているような気にはとてもなれないのだから。
自嘲気味な内心を気取られないように少し前を歩く。
「センセは強いなぁ…」
こちらに聞かせるつもりで言ったのか単なる独り言なのかは定かではない。
だから、こちらも返事は言わない。
(強い? あなたより少しだけ諦めが良いだけの話ですよ)
古びた研究室のドアノブに手を掛けて、ふと思った。



そんな拗れた連中が

教室から二人が出て行くのをぼんやりと見ていた燐が呟く。 「…雪男と志摩の奴…なんか仲良しだな」 唇を尖らせて、面白くない、と訴える。 「なんや嫉妬かいな」 勝呂は鼻で笑うようにそう言った。 「いや別にそんなんじゃねぇけど…そっか…じゃあもう俺が居なくても良いのかな」 今度はいやに気落ちした様子だ。アップダウンの激しい奴だな、と勝呂は呆れる。 「…兄弟と友達はまたちゃうやろ」 まぁ気休め程度のつもりで言った訳だが。 目に見えるそのままを言えば、『実に過保護な兄貴』だ。 いや、「過保護過ぎる」と言いたいぐらいに依存度が高いと見た。 「そーか?」 妙に嬉しそうにする。 兄弟と友達は、別。特別。 その響きが気に入ったらしい。 (何にも拘りが無さそうな奥村のイメージを見事にひっくり返しよった) 兄弟の居ない勝呂には今ひとつよくわからない感覚だった。 「なんやお前、気持ち悪い顔すんなや」 にやにやにやにやとアホみたいに。 「はぁ? どこが気持ち悪いってんだよ」 強いて言うなら全部や、全部。喉まで出かかった言葉を押さえ込んで、勝呂は溜息を吐いた。 「お前大概過保護ちゃうか? 先生かてお前の知らん知り合いの一人や二人居て当然やろ。 そういうのも一々いちゃもんつけるんかいな。無理やろ?」 「あ? そんなの当たり前じゃねぇか」 言葉の割に、けったいな顔しよって。 「じゃあもうちょっと物わかりええ顔しとれや」 勝呂の言葉の意味が分からないのか燐は首を傾げた。 「…全力でおもろないって顔しとるわ」 すると燐はしばらく首をひねって考えていたが、 「だからそんなの当たり前だろ。俺にはあいつしか居ねぇんだから」 と当然のことのように言う。 「…当たり前って、そっちかい!」 勝呂はどうやら会話が噛み合っていなかったらしい事に気付いて愕然とする。 勢いで突っ込みは入れた物の、正直に言えばそんなことをしているテンションではなかった。 気持ち悪い。 ぶわりと鳥肌が立つような感覚を味わった。 「…だってさ、俺生まれてから一度も『雪男の兄貴』じゃなかったことなんて無いんだぜ」 少し困ったように。それ以上に自慢げに。 視線で、もう姿も見えない弟の後ろ姿を追いながら。

これぞ拗れすぎてどうなってるかわからない人間関係です。笑 一応説明すると 「すぐしますぐ前提、燐雪前提の燐と勝呂が友達やってることにジェラシーな志摩君を哀れむ雪男」 ですね。わかりづらい。笑 2011/07/18(9/30格納)