※時系列とか 気にしたら まけだ。【名前のない】
任務の合間に少しだけ気を休めようと、奥村雪男は外に出た。 夜でも蒸すように暑い。もう残暑なのに。 じわりと浮いた汗に、しくじったかな、と雪男は内心溜息を吐いた。 京都の夏は殊更に厳しい。 盆地という地理特性には『夏暑く冬寒い』という人が生きるのに適さない気候が付随するのだ。 あまり暑さに強くない為に、ここより格段に涼しい土地で育った割にはよく熱を出して倒れた。 雪男にとって夏とは具合の悪い時期なのである。 仮にもう九月だったとしても、熱気が残っている内は駄目だった。 『ここなんか、まだ涼しい方やで』 一回り上の男が、馴染みのないアクセントで言っていたのを思い出した。 『俺の住んでた所なんか、この数倍暑苦しかったからなァ』 あの頃の雪男にとっては見上げるように背が高かった『少年』は、確か京都の出身だった。 『言うかな、夏は暑いんやって諦めとれば少しは楽になるで。悟りって奴や』 『心頭滅却すれば火もまた涼し、ですか?』 『………一番下の弟と同い年とか、嘘やろ』 何とも言えない微妙な顔を、彼はよくしていた。 そう言えば、彼の実家は——— 「こんなところで何やっとんねん」 思索の海に沈んでいた雪男を強制的に引き摺り上げるような調子だった。 「志摩…さん」 驚いただけ、と言うには苦々しさが強すぎる顔で雪男は言った。 「なんやねん。めっちゃ嫌そうな顔しやって」 志摩金造。派手に染めた金髪が主張するように夜闇の中で光っている。 嫌そうな顔だと文句を言いながら、ケチを付けた当の本人も相当嫌そうな顔をしていた。 「いえ、別にあなたが嫌なんじゃないんですよ、単に過去を思い出してしまっただけで」 過去。短い言葉が夜の底に落ちる。 入塾年度が違うと殆ど接点のないあの塾のシステム上、本来ならば金造と雪男の間に面識の出来ようなど無かった。 あくまでも『反実仮想』の話だが。 「…おーおー、『奥村先輩』も偉うなったもんやな」 せんぱい、という音に金造は特別に間を取って喋った。 金造と雪男はおよそ五歳離れている。 今年の誕生日で二十一歳の金造。雪男は十二月で十六歳である。 しかし、相手を先輩、と呼ぶのは雪男ではなく金造の方だった。 所謂『諸事情』という奴だ。 普通十五歳———高校入学を待って祓魔塾に入塾する人間が多い。 実家を離れるとなるとそれなりの年齢である方が都合が良いし、塾の性質上表立っては正十字学園に通うのが一番楽なのだ。 入塾規定に年齢制限を付けずとも、実際に集まってくる人間が自ずと近い年齢になりがちなのもそういう都合からだった。 集団は、その暗黙の了解じみたものを無視する人間には冷たい。 殆ど『同質』な人間集団の中に、唐突に放り込まれた異分子は誰が言い出すでもなく隔離される。 溝が出来る。 そしていつのまにか硝子の向こうになっている。 奥村雪男は、その硝子の外側の存在として祓魔塾時代を過ごした。 同期生という繋がりを持てないまま、技能と知識を人一倍の努力と才覚で獲得したのだ。 協力の仕方も頼り方も結局覚えないまま、資格だけが与えられてしまった。 祓魔師は一人では戦えない。 その言葉は確かに真実であり、真理であり、尊敬してやまぬ神父の言う事なので雪男は黙って鵜呑みにする事にしていた。 鵜呑みしたまま、全く加工をしないまま、生徒にも『講師として言うべき事』として伝えた。 けれど、奥村雪男は独りで戦っている。 祓魔師である前に非力な個人でしかない奥村雪男は、それでも手の取り方が覚えられない。 いつまでも、不器用な子供でしかない。 「———その呼び方やめて下さい」 先輩というただ一言に揶揄するような調子を感じ取って雪男は耳を塞ぎたくなった。 あまり思い返したくない塾生時代を彷彿とさせる音が、苦手なのだ。 「せやったら自分も『志摩さん』って言うのやめぇや」 売り言葉に買い言葉、というのが丁度良いだろうか。 金造は舌打ちせんばかりの苛立ちを滲ませた。 「どういうことですか」 何故自分の苦情と同列に扱われるのか解らずに雪男は眉間に皺を刻んだ。 「俺は志摩さんやのうて金造ですー」 そんなこともしらんのかいな。 馬鹿にした様子で言ったが、まだ苛立ちの方が勝っている。 「知ってます」 雪男は人から苛々されることには慣れていたが、面と向かって『なんやねん、お前ほんまに腹立つわァ』などと言って来た「他人」は目の前の『志摩金造』だけなのだ。 少し、いや、相当苦手意識を持っているのはどうしようもない。 「アホか。知っててもずっと志摩さん志摩さん言うとったら一緒やないか」 「それは済みません。けど、今更変えろと言われても———」 「何をやっとるんや、金造」 仁王立ちで睨みを利かせている。 金造から更に五歳離れた、兄の柔造である。 「げ、柔兄」 金造は苦虫を噛み潰したような顔をした。 「お前、また人様に喧嘩売っとったんと違…あれ?」 柔造はやっと、驚愕で呆然としていた少年に気付いた。 「………雪男? あれ、でも…あ、そうかもう祓魔師なってるって聞いたしな…」 コートを見咎め、しかし納得し、自問自答しつつ柔造はからんからんと下駄で前進し、 「あ、絶対雪男や! 黒子の位置が全く一緒やもんな」 頬をむに、と引っ張りながら言った。 「…やめてください、志摩先輩」 雪男は困惑しつつされるがままになっている。 文句を言うのも怒られるのも中途半端なままの金造はふい、とそっぽを向いた。 「えー、あれや、今年で十六…七か?」 久しぶりに会う親戚のおじさんだとか、恐らくそういうテンションである。 残念ながら雪男には『おじさん』がいないどころか親戚血縁に類する物は双子の兄しか居ないので、その感覚自体理解出来ない代物だったのだが。 「十六ですけど」 頬を抓まれたままなのでどんな顔で返せばいいのかはかりかね、雪男はただ眉間の皺を深めた。 「ほーそないか。あ、そうやそうや。確か廉造と一緒やったな」 納得の手打ちをするために、柔造はやっと手を離した。 れんぞう、という音が鼓膜で引っかかり、音素に分解され再び構成される。 れんぞう、って、誰だっけ。 雪男は喉まで出かかっているのに解らない言葉のような気持ち悪さを感じた。 「…解らんと思うから言うとくけど、廉造は弟な。ドタマピンクにしよった大アホの」 金造が付け足した。 「ああ…志摩君…」 あまりのことに『頭を金髪にしてるあなたがそれを言いますか』という一言がすっかり頭から飛んでしまった。 そうか。 そうだ。 そもそも名字が一緒なんだし。 この業界で京都の志摩家なんて一択も良いところだった。 なのに、なんで気付かなかったんだろう。 気付いていなかったのに、 「お前、やっぱり名字でしか呼んでへんやないか」 金造の眼が酷く冷たい物のように感じられて、雪男は僅かに身を竦ませた。 「だって、今は塾で彼の講師をしているんです。名字しか、呼びませんよ」 呼ばないにしても、知っていたっておかしくなかった。 寧ろ、一度や二度でなく書面上で名前を確認しているはずなのに出てこない方が異常だと言われても仕方ない。 金造もそのくらい考えたのか納得のいかない顔をしたが、 「ほぉか」 とだけ言って口を閉ざした。 「ほな、今は『奥村先生』かぁ。偉なったなぁ、雪男も」 呵々と笑う柔造。 「偉い…わけじゃないんですけど…」 頬が少し熱い気がして雪男は俯いた。 「いや、偉い偉い。そこの金造よりよっぽど偉いわ」 ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜながら柔造はぶすくれている弟に眼をやった。 「ほんで、こんなとこ出てたら暑いやろ。部屋の中戻り」 金造はもとより、雪男にしても、最早外に居るべき理由などなかった。 / 「で、先生は何でそれを俺に言わはるかなァ…」 思わず頭を抱えた。 「聞きたいって言ったのは志摩君ですよ」 彼はいつもの苦笑をしている。 「だってそんな…『志摩君』って言った後にあんな変な態度されたらいくら俺でも流石に訊いてしまいますって」 いつも通り何気なく『志摩君』と呼びかけておきながら、返事をしようと振り向いたら既に茫然自失の体だったのだ。 なんでやねん、とどこにつっこめば良いのか解らないもやもやを噛み殺して先生の肩を叩いた。 …気付かない。 『せんせー』と呼びかけても返事が無い。 いやいや、ほんとにどないしたんですか、と言いつつ軽い悪戯心で頬を引っ張ってみたら、 『志摩家ではそうするのが普通なんですか?』 である。 ———そら、訊くわ。寧ろ訊かん方がおかしいわ。 心の中でほう、と溜息を吐いた。 「気分を悪くさせたなら済みません」 『奥村先生』は困り顔で無理矢理笑った。 「別に構いませんよ、だって先生やのに俺だけ『廉造君』っておかしいやろし」 自分で言って、うわぁなにそれ恥ずかし…と背中に思いっきり冷や汗をかいた。 あった。なんかそういう話があった気がする。主にラブコメとかそういう… 「志摩さんには怒られましたけどね」 苦笑いが抜けないようすにもやもやする。 あと、志摩さんってどのや。金兄か、それとも柔兄の方か。そこは流石に訊けずに、更にもやもやする。 「でも、俺かて『奥村先生』と『奥村君』としか区別してませんしねぇ…お互い様やなァと」 思いたい。思い込んでおきたい。寧ろそんな厄介な事は忘れていたい。 「そう思って貰えるなら幸いです」 ってことはその『志摩さん』にはやなこった、って言われたんやろうな。 …うん、どっちが言うたか確実に解ったわ。金兄や。ていうか金兄以外有り得へん。 自分より五歳も年上でありながら、かなり子供っぽい所のある兄の姿を思い出して何度目かの溜息を吐いた。 あーあ。あの大馬鹿兄貴———って、あれ? そうか、先生は今までずっと俺のこと、 「れんぞう、君」 小さな声だった。 本当に、小さな。 寧ろどうして聞き逃せなかったのか俺にはさっぱりわからない。 「今、それを言いますか」 ほんとに、本当に、タイミングの悪い——— 「すみません、けど、やっぱり志摩君の方が言いやすいですね」 邪気の全く無い言い方に、 どうした物かと途方に暮れるほか、俺にできることなんて無かった。色々捏造乙っていう。まぁ日付を見ればわかると思うんですけど まだ諸々出てなかった頃なのでこういう妄想もできたっていう。 愛すべき志摩廃ナカノに捧げた志摩家と雪男の話でありました。 2011/08/28(01/17格納)