憂鬱よりは少しばかり軽い






【少年ライトブルー】

「勝呂君」 教壇から凜とした声が響く。 同い年の人間が発したと思えないぐらい落ち着いて、けれど重くはない。 居眠りを指摘されるとき以外は、聞いていて心地の良い音だと思っている。 「はい」 坊はすっと席を立ち、悠々と歩いて行った。 あれは多分、相当自信があると見た。 まぁいつだって坊は自信を持てるだけの努力をしているのだから、当たり前と言えば当たり前か。 「いつもながら感服しますね。この調子で頑張って下さい」 『先生』をやっているときの彼は本当に型どおりに笑う。 一番、人に敵意を抱かせない笑い方とでも言えば良いか。 「先生のご指導のおかげですわ」 こちらはこちらで優等生そのままの台詞である。 あれを本心から言ってるのだと知っているが故に、余計に怖い物を感じる。 「だと有り難いんですけど」 遠目には解りづらいが、多分、今ちょっと眉根が寄っている。 ———あくまでも上品な表情なんやろうけど。 見えない部分を想像で補ってそんな風に思う。 敵意とは違う。 けれど、別の世界の人間に対する何とも言えない微妙な感覚というのは感じる。 言うなれば、雲の上の人間同士の会話を見せられているような物だ。 単純に、面白くない。 秀才という奴らは時に残酷だ。 こちらの不真面目さを非常に鋭く突いてくる。 なまじ天才とかそういう生き物でないが為に、努力しない人間を軽蔑の眼差しで見ているのだ。 こちらは向こうを尊敬してやまないと言うのに、一方通行にも程がある。 ———と、卑屈に考えてしまうのはこちらに疚しいところがあるからだ。 全力投球で生きていれば、別に何を言われようと自信を持って生きていけるのである。 逆に言えば、手抜きしている自覚があるからこそ、こうして他人に対してどうも勘繰ってしまうわけで。 『精進せぇよ』という坊の言葉が腹の底で煮えてどうしようもないのは、完全に自分のせいなのである。 世の中の問題は結構な割合で『自業自得』だ。 志摩廉造十五歳。 着実に『悟れない事』を悟りつつある。 「…君。志摩君」 「おい志摩ァっ!」 「はいっ!?」 条件反射で席から立ち上がってしまった。不覚。 「はい!? やあらへん。お前何回先生に呼ばれた思とるんや」 制裁に一発軽くしばかれた。 けど坊。これ地味に痛いんですよ。 「まぁ、疲れてたんですよね。次からは気をつけて下さい」 坊のお叱りで十分だと判断されたのか、先生から説教を食らうことはなかった。 つくづく人間というものを解っている。 叱りすぎず、甘やかしすぎず、そこそこの所で走らせようという計画性。 だてに講師はやってない、って事やろか。 なんだかもやもやしつつ席を立ち、教壇に向かう。 確かに、先生に叱られるのと坊に制裁されるのとどちらが堪えるかなんて愚問だ。 けれど僅か数週間の付き合いでそこまで見破ってくる観察力が気持ち悪い。 俺自身割と人間関係を見極めるのは得意な方だが、同じぐらい得意そうな人間と巡り会うのは初めてなのだ。 あの人は一筋縄ではいかない。そう警戒しなくてはいけないことが面倒くさい。 「えらいすみません…なんやぼうっとしてまして…」 取り敢えず謝っておくに越したことは無いだろう。 「新しい環境に慣れるまでは皆さんそうですよ。けれど、次からは厳しく言いますから気をつけて下さいね?」 間近でみると本当に人当たりの良い微笑だ。 体格が良いので下手をすると威圧感が出そうなものだが、それが微塵も感じられない。 「善処します…」 「そうして下さい。出来ればテストの方ももう少しだけ本気を出して貰えると有り難いですね」 笑いながら結構えげつないことを言われた気がする。 『お前、そろそろサボるのやめろ』をオブラートに包んで伝えられたような。 返却された答案を見て、確信した。 百点満点中の七十二点。取り立てて悪いわけでもなく、かといって良好とも言い難い。 そこそこの勉強で取れるような点数。 手抜きしたと見る人が見れば一発で解るような、答案。 「ら、来週から本気出しますから」 笑って誤魔化そうとして、あれ、今かなり失敗したんじゃないかと後から気付いた。 「…期待してますね」 菩薩のような表情が、今は何よりも恐ろしく思えた。 / 寮の部屋に戻ってからすることなんて大体限られている。 学校の方で出される宿題をやって、塾の課題を終わらせる。それぐらいしかない。 ああ、後は健全な男子高校生のたしなみとして肌色の雑誌を捲ったりするぐらいです。 実に健全で退屈な生活。ルーティーンワーク。 そして暇無しなはずなのに以外と暇を持て余しているような感覚に陥る謎。 …飽き飽きしているから、やろうな。 だったらまだ飽きていない新しいルーティーンを増やすために鍛錬みたいな事をやっても良いがどうせ我流じゃ何の役にも立たないし、手合わせは相手が必要なのでそれこそ出来ない。 兄弟が山ほど居たので実家にいた頃は全く相手に困らなかったが、こうして外に出てみると一人、というのは割に不便だ。 暇の潰し方が解らない。 坊? そらあかんでしょ。 真面目に生きてる人間を脱線させるほどの駄目人間には流石になりたくないし。 子猫さんかて俺と違てやらなきゃならんことも背負わなあかんもんも大きいわけやし。 つまり、ぷらぷらしてられるんは俺だけなんです。 と、思うと。 ああ、俺って案外孤独なもんやわ。 なんて自虐ネタの一つや二つ言いたくもなるというもので。 「まぁそんなしょうもないこと考えてる暇があるんやったら見直しぐらいせえや、ってな」 鞄から今日返されたばかりの答案を取り出した。 七十二点の答案なんて中途半端すぎて見直す気にもなれない。 そう言ってぼうっと時間を潰しても良かったが、今ぼうっとすると余計なことばかり考えそうな気がしたので ———あくまでも『建設的に時間を潰す』ための方策としてこれ以上に最適な物が思いつかないのだから、今日ばかりは諦めて向き合うことにする。 「で、俺は何を間違えたんですか…って、あれ?」 するすると答案に目を滑らせて、何だかおかしなことに気が付いた。 七十二点にしては少し『ばつ』が多すぎる。 それに、丸になっている部分も何だか線が揺れている。 「おろ…?」 極めつけは最後から二番目の問題。丸の途中でインクが明らかに滲んでいる。 裏返してみてもはっきり解るぐらい、そこだけインクがどぼどぼに染みているのだ。 「………これって…」 あれやないですか。あれ。 要するに、あれや。 えっと——— / 「先生…寝ながら丸付けしはったんですか?」 ぎょっとした顔で先生はこちらを見た。 いや、でも驚いたというよりは『あ、しまった』ぐらいの表情だったかもしれない。 「あー…採点ミスでもありましたか…?」 探り探り、と言った様子での返答だった。 翌日学校の方で先生を発見し、一人で居たのを良い事に半ば強制的に昼食をご一緒させて戴くことにしたのである。 坊と子猫さんには、先に断りをいれてあるので問題無い。 それより、先生だ。 どうして声を掛けられたのか解らない、という困惑を隠しもせずに、それでも大人しく付いてきたあたりやっぱり世渡りと言う物をある程度身に付けているらしい。 「どーしても先生とお話ししたいことがありまして」 「…学校で、ですか?」 「塾やと気にしはるかと思て」 今思えばその時既に『嫌な予感』ぐらいはしてたんじゃないかと思う。 「大丈夫ですよ、そんな厄介な質問とかそういうんじゃないですから」 質問ではない。確認、なのだ。 「はぁ…わかりました」 納得はしていないけれど、と顔に書いてある。 やはり昼間に当たって正解だった。 講師として教壇に立っているときと昼間の学生の時とでは全くガードの堅さが違う。 単刀直入に言いますけどね、と切り出して前述のやりとりに至る。 「採点ミスというかなんというか難しいんですけど」 と思わせぶりに言い、答案を引っ張り出して見せた。 例の、答案を。 「………ああ、まぁ…難しいですよね」 観念したように先生は溜息を吐いた。 「びっくりしましたわ。先生でもそういうのあるんやなぁと思ったらなんや不思議な感じで」 居眠りしながらの採点、なんて人間くさいことをこの人がするとは。 後続の人間の憧れの的であり、優秀が服を着て歩いているような最年少祓魔師の奥村雪男、が。 「……すみません。お恥ずかしい限りです」 雲の上の人間が、それでもやっぱり人間なのだと。 ざまぁみろ、と言ってやりたい気持ち半分。 まぁ、言わへんけどな。 ちょっとでも他人を傷つけるのは面倒くさい結果が待ってる事ぐらい、馬鹿でも解る。 そんな厄介なことを背負い込むぐらいなら、ささやかな優越感なんて無くて結構だ。 ただ、少しだけ、ばれない程度に言いたい、とも思う。 王様の耳はロバの耳やねんで。 と、小声で囁きたいという欲求。 何となく無難そうな言葉を選んでから口を開いてみた。 「いやいや、なんか親近感わきましたわぁ。弘法にも筆の誤り言うか…」 ———けれど、続きは言えなかった。 恥ずかしそうに俯いている横顔が、 あまりに、 えっと、 なんやっけ? 「…みんなには、内緒にしてて下さいね?」 まだ頬を火照らせたまま、そんな都合の良いことを言う。 そんな義務はありませんー、と突っぱねるべきところだったのだが、 「あ、は…はぁ…大丈夫ですよ、そんなん誰にも言いませんてぇ…」 なんて口が勝手に約束してしまった。 ちょっと待てよ廉造。 しっかりせぇよ廉造。 弱みは掴んだしこれで当面は安泰やな、とか思ってた俺はどこへ行ったんや。 「…良かった、ばれたのが志摩君で」 無責任な信頼を両肩に載せられて、蹌踉めく。 やめてください、俺はほら、そういうんと違うんです。 別にそんな良い人とか違いますし。 「先生には一回見逃してもろてますからね。困ったときはお互い様ですわ」 何を言うとんねん廉造、ほんま後でどつきまわすで。 いい加減にせんと——— 「やさしいんですね」 いつもは自分よりも遙かに大人びている先生が、 幼さの残る少年の顔ではにかんだように笑っている。 少しは人を疑ってください。 と、言いたい。 けれどもしこれが『疑い抜いた結果』の無防備なのだとすればあまりに恐ろしい。 どんな凄まじい人生経験がそれを身に付けさせたのか、想像も出来ない。 弱みを掴んだつもりが思いっきりカウンターを食らわされて立ち直れない。 なんて間抜けなんやろう、俺。 策士策に溺れる。 世の中の大半の出来事は『自業自得』である。…洒落にならへんわ。 「そんな…照れますわぁ…」 言い逃れのうまい言葉が見つけられないまま本音を口に出すしかなかったのも、やっぱり自業自得という奴だった。 / 軽薄で憂鬱な、 爽やかな、 諸々。

志摩君がげすくて志摩君が痛い目みててつまりいつもの國東です。 なんかこう、偶には少女漫画みたいなくっそはずかしいの書こう と思ってた筈なのに蓋開けたらこうなってましたテヘペロ 2011/09/02(01/17格納)