※雪男さんはいつだって病んでいる。






熱気が増幅される、黒く舗装された道路で。

硝煙アスファルト

蝉の鳴き声というのはどうも、人を絶妙に苛立たせる周波数に思えて仕方がない。 頭の中で不必要に増幅し、拡声され、その存在感を増す。 悪意に満ちたトーンだ。 いっそ「あれは全て下級悪魔なのだ」とでも言われた方が納得出来る。 その声を聞くだけで、暑さが何倍にも酷い物に感じられる。 ———しかしそれは、誤った刷り込みによる条件反射だ。 本当は蝉の声なんかに苛立っているのではなく、セットで存在する堪え難い暑気の方に腹が立っている。 では何故余りにも多くの人間が(自分も含めて、だが)事実誤認を起こしているのかというと、 「あちーよー、あちー」 暑気なんてものに苛立った所で、それはどうしようも無い現実として我が身にのしかかってくるばかりだからである。 嫌がろうが何だろうが、夏は暑く、べたついたものだ。 そんな個人の手に負えないような宿命に腹を立てるより、 まだしも一生物に過ぎない蝉に怒りをぶつける方が『可能性がある』というものだ。 奴らは少なくとも、『黙らせる』事が出来る。 一匹一匹、気付いたら撃ち落としていく。鳴き声が聞こえたら、一撃で。 それを毎年毎年繰り返していけば、いつか、自分の住む地域から蝉という種族を駆逐してしまえるかもしれない。 何年かかるか想像も付かないが、でも不可能ではない。 とすると最後には馬鹿げたことに、もう聞くことの出来なくなる虫の声に懐かしみさえ感じるかもしれない。 『失ってみなければ分からないものもあるのだ』 なんて一丁前に喪失感でも味わえるのだろうか。                   なにを考えてるんだ、僕は。 「なー、雪男ー。聞いてんのかー?」 酷暑にはさしもの悪魔も形無しだった。 なす術もなく、只々地獄のような放射熱に茹だっている。 これがあのサタンの落胤だと言うのだから、案外サタンとやらも酷暑には弱いのかもしれない。 なんて。 …そんな馬鹿げた事が有るか。 自分の思考のふっ飛びぶりが恐ろしくなる。 今のは確実にやられていた。 何をどうすればそんなファンシーで悪趣味な冗談を思い付くんだ。 やっぱり暑いのは困る。 そりゃ夏が過ごしづらいのは日本に生まれた宿命なのだと納得している。 してはいるもののやはり暑いものは暑い。 そして、暑さを言い訳にここぞとばかりに稼働をサボる思考回路にも腹が立つ。 「おい雪男ー、あちーって言ってんじゃねぇか」 痺れを切らしたか、拳が飛んでくる。 が、全く以てキレのない動きである。 受け止めるとぺち、と水っぽい音がし、自分も兄も相当汗で湿っていたことに今更気付かされた。 (うわぁ…) と声に出さないように気をつけたが、兄は気付いたかもしれない。 けれどこんな風に、強く握ると滑りそうなぐらいべたべたする皮膚の感触にはげんなりする。 「雪男のくせに生意気だぞ」 へろへろ、といった風情だ。 しかしその兄に負けず劣らずこっちも内心へろへろなのである。 顔に出さないように気をつけているかいないか、それだけの差だ。 「そりゃ夏だもの、暑いのは仕方ないよ兄さん」 気休めだ。 そして先刻の脳内会議の結果、気休めにすらならぬとわかってしまった言葉でもある。 「うるせぇよ、一体誰の許可取って暑くしてんだよくそー…」 案の定、納得しなかった。 まぁ、納得して欲しくて言ったわけではなく、どちらかと言えば、 『何度も繰り返しそう言ううちに何となく自分でもそんな気がしてくるかもしれない』のを狙っているというか、 つまり、洗脳だ。 自分自身を騙すのだ。 心頭滅却すれば火もまた涼し。 そんなわけがない、という疑りの心根が既に間違っているのだ。 とでも思わなくてはとてもやり過ごせない。 「さぁ…そんなに暑いのが嫌ならもっと北の国にでも住もうか?」 というか、兄さん。 焔に包まれても平気な癖に、炎天は駄目なのか。 今更気付いた下らない事につい笑いそうになる。 「住もうかってお前…出来もしない事をやれば出来そうな調子で言うなよ」 流れで握ったままになっていた拳がずるりと滑った。 ばらりと指に分かれたかと思うと素早くこちらの指の間に滑り込ませてくる。 (そこは離すところだよ兄さん) そう思いながらも、別に抗議一つしない。 「やろうと思えば出来るよ、多分。まぁ鍵を二三個経由しないと駄目かもしれないけど」 「じゃなくて、お前、そんなの」 今度こそ、俺から離れられなくなるぞ。 よく蝉の鳴き声をミンミンだのわしゃわしゃだの表記するが、実際そんなに綺麗に聞こえた試しがない。 寧ろもっとノイズに近いような、ざらついた、得体の知れない音に聞こえるのだ。 耳の奥で反響する間に、何かが混ざるのかもしれない。 血の巡る音か、それよりもっと、悪質な音が。 「今だってもう、離れられないよ」 目の前にいるのは確かに兄であり、(決して自分の妄想ではないはずであり、)短く伸びる影も多分本物だ。 ただ、組まれた指だけが妙に嘘くさくて、そこだけ現実味を剥ぎとられている。 「嘘吐けよ。ほんとは俺のことめんどくさいって思ってんだろ」 いつものように、唇を尖らせた。 ああもう、酷いな、兄さんは。 「面倒臭いね、ほんと。けど、そんな面倒臭い兄さんの事を放っておけない自分がもっと面倒だよ」 じりじりと黒く焦げたアスファルトのにおいがする。

サイト用に先に書いてたつもりだったので  とっくにうpした気でいたら実は載せて無くて 自分の記憶力のあてにならなさに衝撃を受けた。 馬鹿め…國東馬鹿め… 2011/06/29(09/30格納)