俺には母さんが居ない。
生まれたときから、居ない。
最初から居ないんだから、寂しかったね、なんて言われてもよく解らなかった。
本当の父さんじゃないけど、神父は居たしな。

それに、俺には雪男が居る。
泣き虫で身体が弱かったけど、それでも俺の最高の弟には違いなかった。

それだけで十分で、それ以上は要らなかった。
足りないとも、思ってない。
今でも、そう思っている。


(と、信じているに過ぎないことを、誰も教えてやれない)



【遠すぎる憧憬】

「お帰り兄さん…遅かったね」 心配してたんだ、と怒る一歩手前みたいな調子で言った。 「あー…おう…」 腰に手を当てて立っている。 まだ中学生なのに、ずっと眉間に皺が寄っている。 俺のせい、だけど。 「また喧嘩してきたの」 あきれた、と続くかと思ったのに今日は言わなかった。 言うのも疲れるぐらいあきれられたかと思うと胸が痛い。 そんなの、じごうじとく、って奴だ。 『頼むから、危ないことはしないで』って毎回言ってくれるのに、 『次からは気をつけるから』って言うくせに、 毎度毎度一方的に俺が約束を破るんだから、そりゃ、あきれられるのも当たり前じゃねぇか。 「喧嘩…じゃねぇよ…」 けれど、今日のは大目に見て欲しい。 だってあいつら、雪男の事を馬鹿にしやがったんだ。 「じゃあどうしてそんなところ怪我してるの」 どんなに俺が駄目な奴でも、ずっと心配してくれる大事な大事な雪男の事を、だ。 俺の事はどれだけ馬鹿にされてももう、何も思わなくなった。 けど雪男は駄目だ。絶対に、許さない。 「………転んだ」 「………随分と派手に転んだんだね」 困った兄さんだ。 そう言いながら本当に困ったような顔をするから、心臓が飛び出るかと思った。 ああ、今日こそ。 今日という今日こそはもう見放されるんじゃないだろうか。 俺があまりにも約束を守らないから。 いつまで経っても馬鹿が治らないから。 ばくばくと心臓が鳴ってる。 胸が、いたい。 「痛いんでしょう? 消毒するから座って」 困り顔のまま、雪男は少しだけ笑ってくれた。 痛い、さ。 痛いけど、顔の怪我なんて大したことない。 それよりもっと、ずっと、 「…雪男…」 「化膿したらもっと痛くなるから、早い内に手当てした方が良いんだよ」 棚から救急箱を下ろしてきた。 その横顔に、何か———見たこともない何かを重ねているのだと、最近気付いた。 「お願いだから、もう危ないことはしないでね」 ほら、座って。 目を見てそんな風に言われたら、誰が逆らえるんだよ。 大人しく椅子を引いて座る。 向かいに座った雪男が救急箱から脱脂綿とオキシドールを出してきた。 いつも通りだ。 「雪男、ごめん」 作業の手が止まる。 「兄さん…?」 「ごめんな、俺、お前に心配かけてばっかりだ」 声が掠れてきた。 喉が詰まってる。 やばい、久しぶりに泣くかもしれない。 みっともねぇな、それ。 だってさ、弟の前で、泣くなんて——— 「…良いよ」 怪我をしてない右の頬を、雪男の手が包んだ。 「わかってくれたら、それでいいから」 椅子から下りて、俯いている俺に視線を合わせた。 間近で見ると、青っぽいけど緑の混じった目がきれいだ。 俺とさっぱり似ていない雪男が、少しだけ似てる所。 「だから、僕は大丈夫だよ」 優しいこえ。 痛みがじわりと溶けるような、やさしい、 「———ゆきお」 「何?」 かあさんみたいだ。 「…なんでもない」 泣いても良いんだろうな、と思うと急に涙はどこかへ消えてしまう。 不思議だなぁ、といつも思うのだが、そんなこと雪男は多分知らない。 / 保育園でお母さんの顔を描きなさいと言われたことがある。 他の子は迷うことなくいつも迎えに来てくれる母親の顔を描いていた。 当然、子供の描いた絵だから下手くそだけど、どれが誰のお母さんか、何となくわかるような絵だった。 何より、描けない、なんてことはなかったのだ。 「どうしたの雪男君。今はみんなでお母さんの絵を描く時間よ?」 何も知らない保母さんはそんなことを言った。 雪男は真面目で——— どうしようもなく真面目だったから、見たこともないお母さんなんて、描けるわけがなかったんだ。 けど、うちにはお母さんが居ません、なんて言うと、また雪男はいじめられるんじゃないかと思って言えなかった。 ただ黙って、絵を描くことを投げ出していた。 俺は。 俺だって母さんなんて見たことない。 写真ですら、俺達は見たことがなかったのだ。 けど、俺も描かなかったらきっと、お母さんが居ないから描けないんだって誰かが気付く。 それだけは、駄目なんじゃないか。 何も解ってないなりに、あの時の俺は考えていたのだ。 「せんせー、俺ちゃんと描いたよ」 雪男と保母さんは同時にこちらを向いた。 あの時の雪男のびっくりした顔は未だに忘れられない。 描けるわけがないのに。 ありもしないものを描くなんて、どうやって。 驚きすぎて泣きそうになってたような気さえする。 「えらいね燐君。とてもやさしそうなお母さんね」 子供の下手くそな絵で。 こんな人が母さんなら良かったのにな、なんて思いながらクレヨンを動かした。 今思うとあの絵はどこか、雪男を透かして見ていたのかもしれない。 みどりの目の、色の白い、優しい、 / 真夜中にふっと目が覚めた。 怖い夢を見ていたわけでも悲しい夢を見ていたわけでもないのに、よくわからないまま泣いていた。 たまにそういうことがある。 昼間泣き損なった涙が、寝てる間にこぼれ落ちているのかもしれない。 まばたきすると暗い部屋の中に少しだけ明かりが点いていた。 雪男、まだ勉強してるのか。 時間がわからないからどれだけ夜更かししてるのかわからない。 けど、外は真っ暗なはずだから、やっぱり良くない。 不良みたいな俺は別にどれだけ駄目な生活をしようが構わないけど、雪男は駄目だ。 そうでなくても身体が弱いんだから、無理なんてしない方が良い。 がばりと身体を起こして明かりの方を見る。 雪男は、姿勢良く椅子に座って分厚い本を読んでいた。 きっと難しすぎて読んでる内に頭から火花が出そうな本を、さらさらと読んでいるのだ。 鼻筋の通った横顔。 口元にある黒子。 自分より大人びた顔だ。 「雪男、今何時?」 声を掛けられてやっと気付いたのか、雪男がこちらに向き直った。 「十二時過ぎぐらいだけど———」 はっとしたような顔をする。 あれ、何かおかしなこと訊いたっけ、と思ってしばらく考えてみたがわからない。 何か間違えたっけな。 すると答えが出るよりも先に、読んでた本を机に置いて雪男はすたすたとこちらに歩いてきた。 「大丈夫? 何かあった? 怖い夢でも見たの?」 自分の方が泣きそうな顔してるくせに———って。ああ。そういうことか。 「そんなんじゃねぇよ。大丈夫だから」 こういうときは、何を言っても無駄なんだってのはよくわかってる。 きっと、言葉を全部悪いように悪いように考えてしまうだろう。 「でも、」 じゃあ、何も言わない方が良いんじゃないかって、そこまで考えた俺は偉いと思う。 久しぶりに抱きしめてみたが、力加減が解らない。 もっと緩めた方がいいんだろうか。 どうなんだろう。 「にい、さん」 「ん?」 石鹸のにおいがした。 ああ、風呂上がりなんだ。気付かなかった。 「くるしいよ」 でも振り払おうとはしない。 「そうか?」 「………兄さん」 頭をそっと撫でられた。 「辛かったら、言ってくれて良いんだよ?」 違うんだ。 たった一人の弟の前でぐらい、ほんとはずっとかっこつけてぇんだよ。 できないから、こうなってるだけでさ。 だって、 泣いても良いのは、 泣き言を言っても良いのは、 母さんの前でだけ、じゃねぇか——— / 見たこともないその面差しに 憧憬

アニメからネタだけ拾ってきた話。 燐ちゃんは明らかに雪男にマザコン拗らせてると思う。 日本語がおかしいのは承知の上です、が、そうとしか思えない。笑 2011/09/05(01/17格納)