奥村雪男は『接触不良』を持っている。 / 青ざめた顔なんて、初めて見た。 なるほど『顔面蒼白』とはこのことかと妙な感心すらした。 そうやってどうでも良い事に頭を取られるのは偏に動揺しているからだ。 悪気はなかった。 いや、確かに悪気じゃなくて邪念みたいなものはあったのかもしれないけど、それだって自分ではさっぱり気付かない程度のものだった。 だから、純粋に驚いたのだ。 何が起きたのか分からなくて、茫然とした。 「あ………いや、あの………すみません…」 何の他意もなく、それこそ普通の知り合いに対する感覚で肩に触れた。 確かに先に呼びかければ良かったのだが、普段通り手が先に出てしまったのである。 そこに関しては不用意だったと謝っても良い。 けれど、幾ら何でもこれは『過剰』だ。 「あ、いや、こっちこそすんません…」 手の平がじわじわと痺れている。 痺れているだけで、痛いとは思わない。 寧ろ、先生の方が余程痛かったんじゃないだろうか。 「ごめんなさい………ごめんなさい……」 先生は、まるで子供のようにひたすら謝っている。 ひたすら、ひたすら。 そうしていれば、嵐は通り過ぎるのだと。 おそろしいものは うずくまってかたをだいていれば とおりすぎるのだと 「ごめんなさい…」 誰の耳にも届かない言葉を、呪文のように繰り返していた。 【断線断片】 ———思いっきり、叩かれた。 手の甲で、振り向きざまに。 それはもう、乾いたいい音が鳴ったのだ。 ばしっ、と。 多分、祈るように唇の前で握り締めているあの手の方が、ダメージが大きかったはずだ。 覆うようにした右手の隙間から、真っ赤になった左手が覗いている。 あれが、痛くないわけがない。 「そんな気にせんで大丈夫です、から———」 そして、本日二度目の迂闊、である。 何も考えずに視線を上げた事を後悔した。 (スイッチを、入れられた) あからさまに怯えた目。被虐的な空気。 『壊して下さい』と唇を動かさずに言われたような気がする。 思い込みやって? そのぐらい分かっとるわ。 首のあたりでぞわぞわしている感覚を殺し、努めて笑って見せる。 そう言えば人間は条件反射で笑うことが出来る。 『敵意がない事を表明する』ために、笑える。 へらへらと、馬鹿みたいに。 いやそういう時は馬鹿に見える方が良いんやで、とか。 まぁ、それはどうでもええか。 「…先生、もしかして人に触られたりするの苦手です?」 えらく遠回しに言った。 苦手だなんて甘い言葉を使った。 実際目の前のこの人は苦手なんて次元の問題でない事ぐらいよくわかっている事だろう。 「いえ…その…そういう訳では…」 …まぁ、そう言うやろ思たけどな? どう見ても繕いきれない癖に言い訳を試みる姿に、薄暗い感情がふつふつとわき上がる。 とか言って、もともと性格が良い人間でもないんやけど。 あれは何というか 暴いて下さいと 言外に はっきりと——— あえて目の前に手を出して見せた。 結んで、開いて、狙いをすます。 賢い先生なら分かりますね。 この後俺がどうするつもりか、分かってますね? ちらりと目を合わせる。 今この人の目はとても怖いものを、見ている。 どんなに鈍い人間でも分かったろう。 逃げ出したくてどうしようも無いくせに、意地だけでそこに立っている。 或いは、立っているだけで手一杯なのかーーー 「なぁ、先生」 何れにせよ、バレたんが俺で良かったなぁ先生。 …もしこれが他の奴やってみ? もっと酷い目に遭うとるで。 例えば、ほら、その震えてる身体を無理矢理こじ開けられたりとかーーー 「…やっぱり顔色悪いですよ。無理せんとってください」 手を引っ込めると露骨にほっとした顔をした。 全く、この人は… そういうことをするから、余計酷い目に遭うのに。 「誰にでも苦手なものの一つや二つありますよね」 舌と思考がばらばらになっている。 宥めるような言葉が我ながら嘘臭過ぎて笑えてきた。 頭の中では今正に目の前のこの人を滅茶苦茶にしてやろうとしているのに。閻魔様に舌抜かれそうやね。ぶつっと。 「あの…志摩君…この事は…」 黙っててください、だそうだ。 ああ、なんて都合の良い事言うんでしょうねぇ。 そんなん、俺かて聖人君子と違うのに。 (今すぐにでも、覆せる) いつものように威厳に満ちた先生の顔をしてれば良い。 何をバカな事言ってるんですかと顔を顰めれば良い。 そうすればこれ以上暴力的な感情に晒されずに済むのだ。 安い話じゃないか。 易い事じゃないか。 「大丈夫ですよ。秘密にしときます」 なのに恐怖で凝固してしまったこの人の思考は、そんな簡単な事すら導き出せない。 「…そうして戴けるとありがたいです…」 殆ど猜疑心しかない癖に、俺の舌が本物だと信じて疑わない。疑うだけの知性が、働いていないのだ。 『恐怖心』の前には思考など、無力だ。 如何に思考が優越したこの人であっても、それは同じであったらしい。 「すみません…」 ああ、可哀想やな。 ぼんやりとそう思った。 かわいそうに。 その気持ちだけは、恐らく、何の混じりけも無かっただろう。 ———実に最低なことに。 / 泣くことを知らない訳では無い。 泣き方を忘れたわけではない。 ただ単に、泣くと思い出してしまう諸々に耐えられないだけだ。 / 犬を飼う人と猫を飼う人で性格が違うんだって、と話を振ってきたのは確か同じクラスの女の子だった。 割と可愛い子だが実を言うと名前が思い出せない。 どうでも良い事だ。顔を見れば分かるんだし、どういう話をしたかも覚えてるんだし、それで十分だ。 その子は二言目に「で、志摩君はどっちが飼いたい?」なんて訊いてきた。 ペットなんて飼えへんよ、いつ死ぬか分からへんし。 そんな風に空気の読めない事を言って良い相手じゃないのも分かっている。面倒臭い。嫌いじゃないんやけど、面倒臭い。 「そうやなぁ…えーっと…猫…かなぁ」 「うわー志摩君猫だって!」 「えーマジでー。あ、でもわかるー」 きゃいきゃいと騒いでいるのは可愛くてよろしい訳だが『わかる』ってどの辺が分かるのかよく分からない。 「あのねー猫好きな人って尽くすタイプなんだってー」 「でも志摩君そういうの好きそうだもんね」 そういうの好きそうって。 いや、普通に考えて人に尽くしたがりに見えるってどういう認識なんやろう。下僕っぽいとかそういう事か。 「ああ…そう見える?」 「見える見える」 「だってちょっとマゾっぽいしね」 「あーそれみんな思ってて言わなかったのにー」 ………。 だから、マゾっぽい見た目ってどういう…。 「けど志摩君に尽くして貰えたら幸せだよね」 …よし、訂正。 面倒臭いとか言って悪かった。 あと「そういうの好きそう」に対して冷ややかな目を向けて悪かった。 実際そうやもんな。 可愛いのは良い事や、実に良い事や。 その場はそんな風にして内心でガッツポーズを決めるに留まった。 ———が、後から冷静に考えて前後が逆転してるんじゃないかと思い始めた。どうして今更そんなことを考えたのかについては訊かんでくれると有り難い。 人間偶にそういう謎の思いつきってのがあるやん。 そういう奴です。 話を戻すと、猫が好きだから尽くすのであって、尽くしたいから猫が好きなのではないはずだ、という事なのである。 猫を前にすれば尽くしたいと思うのだろうし、犬を前にすると服従させたいと思う。 そういう物なんじゃないか。 特に自分が相手によって対応を変える人間なのでどうしてもそう思ってしまう。常に誰に対しても尽くしたいと思ってる訳じゃ無いです、というささやかな言い訳も含めて。 「———ここまでが今回のテスト範囲です。出題に差し支えない範囲で質問にはお答えしますので、何か有れば今のうちに、」 ぼんやりしている内に授業が終わってしまったようだ。 あーあ、またろくにノート取れてないやんか。 僅か数行しか書かれていない。しかも、最後の行なんか単語の途中で切れている。 これ後で坊に、後生ですから見せて下さい、なんて頼んだら怒られそうやなァ。 『お前その不真面目ええ加減直さんかい』とか言われそうである。 しかし今回に関しては言い訳の一つぐらいさせて欲しい。 単に俺が不真面目だったというわけでもなく、寧ろ真面目に聴いていたら発狂してたんじゃないかとすら思うのであって。 あの『奥村先生』が平然と授業をしているのである。 つい先日、うっかり触れただけでこの世の終わりみたいな顔をしていたあの人が、である。 外れた仮面を付け直し、鎧の隙を固め、先生の顔で教壇に立っていたのだ。 「先生…なぁ…」 完璧な物ほど人は破壊衝動を覚える。 熱烈な殺意と溢れんばかりの敬愛を以て、破壊の限りを尽くしたくなる。 その内側が柔らかく脆弱なのだと知っていたら尚更だ。 そう、さっきの話の続きだ。 俺がおかしいんじゃなくて、先生がおかしい。 あんな風に怯える子供の目をされたら、酷いことをしてやりたくなるに決まってるじゃないか。 つまり彼は難の逃れ方を知らない。 一番酷くされる対応しか知らない、不幸な人なのだ。 などと理屈に置き換えて対処しなければ、衆人環視の中だろうと関係無く、地面に引き倒して泣かせたくなる。 「赦してください」「ごめんなさい」と泣きじゃくっても止めてやらない。 嗚咽以外何も出来ないぐらい——— 「雪男がどうかしたか?」 冷や水を浴びせられた。 いや最早氷だ。氷。 「あ、え? どないしたん、奥村君、急に」 詰まりつまり返事をする。 見上げると怪訝そうな顔をした奥村(兄)である。 どうしてこのタイミングで声を掛けられたのか分からなくて思考の収拾が付かない。 「いや、志摩が急に雪男がどうとか言ったんじゃねぇか」 待ってくれ。 何を言ってたんや。 自分で口に出した覚えがさっぱりない。 となると最悪全部ぺらぺらと喋ってた事になるわけで、それはつまり、 「あ、あれ、そうやっけ?」 「そこで急に黙るから何かと思ったじゃねぇか。…別に何もねぇんだな?」 …これはどうやらセーフ、か…? 「ああ、うん、ぼぉっとしてただけやから特に何もないよ」 「ふーん、そっか。なら良いや」 それだけ言って襲撃者は大人しく自分の席に戻って帰り支度をはじめた。 …危なかった。 ていうかそうや、教室内ってことは奥村君も当然その場にいるってことやんか。失念しとった。 それはなんていうか…打ったらあかん博奕を打つような話やないか。 半殺しどころの話じゃ済まへんで… つくづく自分の危険思想ぶりが恐ろしくなった。 ああ怖い怖い。 自制心の強い方で良かった。 「そーだ、忘れてた。なぁ志摩、お前雪男に何かした?」 今度こそ心臓が飛び出るかと思った。 「な、何かって、何やろ?」 そう言えばそうだ。 こないだのあれは先生から「言うな」と口止めされていたけど先生に「言わないでくれ」と口止めした覚えはない。 まさかとは思うがぺろっと喋ってはったら色々と——— 「いや、はっきりはわかんねぇんだけど、何か志摩の事避けてるみたいだからさ」 とんだ勘の良さである。 「うーん、それ気のせいちゃう?」 気のせいじゃないことは百も承知だ。 実際避けてくれなければ今度こそ何をしでかすか分からない訳だしな。 「そーか? うーん…」 今ひとつ納得してないようだが、それよりもさっさと帰る方を優先したようだ。鞄を引っ掴み、 「まぁ、また今度訊いてみるわ」 と、どう考えても恐ろしい事を明るい調子で言って教室から出て行った。 / 「おかえりゆき、」 あまりにひどい顔で言葉が途切れた。 「………何かあったのか?」 扉を後ろ手に閉めるなりそこで座り込んでしまった。 驚いて駆け寄ると、かたかたと小刻みに震えている。 「雪男!?」 呼びかけてもさっぱり返事をしてくれない。 「おい、雪男、どうした? 大丈夫か? …雪男?」 「………にいさん?」 ぞくっとした。 「なにがあった」 恐がりで泣き虫でどうしようもなかった子供の頃みたいな目だ。 もう見る事なんてないと思ってたのに、なんで。 「ねぇ、にいさん」 泣きすぎて声が出なくなった後みたいに、聞こえる。 「どうした、雪男」 「………ごめん…なんでもない」 無理矢理笑っているのが分かりすぎて、痛い。 何か有ったんだ。 絶対、何か有った。 けど、それを訊いてほしくないんだ、というのもよくわかる。 わかる、から、 「…おかえり雪男」 それ以上何も訊かないで抱き締めた。 いつも、雪男がしてくれるように。 だめなときはそうしてもらうのが一番良いと、身を以て知っているのだ。 疾うに俺より背の高くなってしまった弟は、少しだけ体温が低かった。 外は寒かったんだろう。 風が強かっただろうから。 ぐしゃりと乱れた髪を梳きなおしながらぼんやりと思った。 / 奥村雪男は『接触不良』を持っている。 人にきちんと触れられない 人にふつうに触られない いつかの断線が、未だ、修復されないままなんか雪男が人に触られるの駄目だったら萌えるよね、とかいう最低な理由からはじまった話であります。 で、何も考えずに書いてたのに微妙に続きというかなんというかも存在したりするという。 これが見切り発車の典型って奴でございます。学習機能がオフになっている……。 2011/09/23(04/29格納)