月の裏側を人間は観測出来ない。

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『パブロフの犬』という定型表現を以て人は条件反射を認識する。
実際の実験内容がどういう物であったかまで知らずとも、『条件付け』が犬程度の生物ならば可能であるという事ぐらいなら周知されているだろう。
ベルに反応して涎を垂らす。
レモンを見て唾を出す。
条件付け。
犬と、同じ。

生物の脳は階層状になっており、脳幹、小脳、大脳に大きく分けることが出来る。
思考、推理などを司っているとされるのは主に大脳の皮質という部分だ。
知性をして人間らしさとし、人間の優越の証明材料とする議論がついぞ百年前まで堂々と行われていた。
科学の進歩、近代の叡智。
進化論は確かに異教的であったかもしれないが、人間の優等を信じて疑わないという意味では『我々の神学』とあまり大きな差は無かった。
いや、近代科学なんて物が成立する前から、人間は思考と論理によって立つと『考えられて』いたのだ。
感情を制御できてこその人間。
思考によって動物性を殺せてこその人間。
神に似せて作られたとされる自負心からの発言なのか、下等生物に対する優越感からの発言なのか。
二項対立を好む連中は知性と感情を対立させて悦に入っていた訳だ。

理性こそ。
自己制御こそ。
人間らしさという砂上楼閣を現出させるものだ。

であれば。
恐怖心という原始的な感情に屈服するのは人間としての敗北だ。
犬の脳に染みついた条件反射の方が、人間の脳による理性的な制御より遙かに優越するなど。
そんなことは人として許されず、
神の名において物質界を守る祓魔師には尚許されず、
修道院に育ち、神父に教わり、拳銃を握る者に許される訳がなかった。

許されない。
赦されない。

ゆるせない。
ゆるしなど。



【憶測観測】



真夜中の懺悔室には神父も司祭も居ない。
この向こうには誰も居ない。

わざわざ鍵を使ってこんな所に来なくてはならないぐらいに追い詰められていることがおかしくて、笑えてきた。
乾いた声が狭い木の箱の中で響く。
誰も居ないと分かっているのに、それでもこんな狭い所に閉じこもって安堵しているのだ。

背中が空くことに耐えられない。
———広い空間で、長時間に渡って背後が空くことに耐えられない。

鍵を握り締めていた手からは古びた金属のにおいがする。
(また逃げてきた。お前はまた逃げている)
錆に近いような、つまりいつも嗅いでいる血のにおいのような。
そんなものがこの手には染みついている。

建前では。
この先には神が居ることになっている。
神の代理人たる司祭が座り、神の代理人として罪を聞き入れ、神の赦しを与えて下さる事になっている。
暗いだけの木箱には、向かい側も同じように椅子が置いてある。
神父が座り、助祭が座るあの椅子には、誰も居ない。
居てはならない。


赦される必要のない懺悔には 自分一人いれば十分だ。


「生徒の手を、叩き落としました」

ならば、口に出すことで何を得ようというのですか。
誰も、聞いてなどいないのに。

「塾の生徒で、」

だから、どうしたのですか。

「彼をきっと、狼狽させたでしょう」

安心しなさい、あなたのことなんて、微塵も気に留めていないでしょう。

「あんな、下らない———」

下らない、何ですか。

「…下らない、」

下らないなら、どうしてあなたはいつまでもここに来るのです。

「それは」

こんな気休めに時間を割いて、———そうでなくとも足りない睡眠時間を削ってまで、あなたは何を求めているんですか。
赦しも要らない。
神も要らない。
ならあなたは何のためにこんな所に来るのですか。

信じない者のために、
誰が救いなど与えると言うのでしょう。

「赦しも救いも要らないのです。ただ、悔い改めたいだけなのです」

この期に及んで見苦しい。
あなたはいつだってそうだ。

誰にも知られずに懺悔したく
赦されないために祈り
愛されないために捧げる

実に矛盾した信仰をお持ちのようですね。

「生きなくてはならないからです」

どうして。

「兄を、守らなくてはいけないからです」

どうして。

「神父との約束なのです。…兄は、僕が守ると誓ったからです」

どうして。

「兄には、……兄さんにだけは、疑いなく生きて欲しいから、」

疑う事は、背くことです。

「わかっています」

あなたはいつまでも、自分の罪を負って生きなければならない。

「…わかっています」

良いですか、
あなたは一度、
自死という最大の禁を犯そうとしたのですよ?

「それは、常々刻んでおります」

/

生きる事は、罪を犯し続けることに他ならない。
しかし、死ぬことは、二度と贖えない罪を犯すことだ。
悪魔を祓う弾丸でこの頭蓋を撃ち抜こうとしたことを、努々忘れてはならない。

赦されてはならない。
赦してはならない。
赦せない。



ぼくは なにひとつ ゆるしてはならない

/

独自習慣、家族限定ルール、一般非常識。
どれでも良い。
結局指してる内容は変わらないのだ。

「………ん、ぅ…」

息をするように自然に雪男に手を出した。
頭を撫でて、抱き締めて、キスをして、はて、どこで止めれば良いのか分からなくてずるずるとやりたいことを全部やっただけなのである。
嫌だとも止めろとも言われなかったので、ラインが今ひとつはっきりしなかった、という言い訳をしても良い。
こうして雪男に触れることがおかしいのだと言うなら、触らせる雪男も十分おかしいということになる。

「に…さん、それ、やめ…」

条件反射で手を止めて、雪男の顔を確認する。
額から左目を手の甲で覆い、薄く開けた右目だけでこちらを見ている。
けれど俺は、その目が殆ど何も見えないぐらい悪い事をよくよく知っているのだ。
「それって、どれ」
やめろと言われたならやめる。
そのぐらいしか、決まり事がないのだから。
まぁ、決まり事と言っても、俺が勝手にそう思ってるだけのことだけど。
「だ…だから、その……、」
———誓って、俺は今何もしていない。
指一本触れてはいない。
ベッドに両腕をついて、ただ返事を待っているだけだ。
「いま、触ってる、の…を」
「…?」
あれ、そんなはずないんだけどな。
そう思いながら視線を落としてぎょっとした。
尻尾…そうか、そう言えばそんなものも有ったな…。

雪男の太腿を機嫌良く這っていた尻尾をつまみ上げる。
持ち主の言う事を聞かないとは困った奴だ。
やれやれどうしたものかなぁと尻尾の奴とにらめっこをしていたら、ベッドについたままにしていた方の手をするりと撫でられた。
「…雪男?」
そのまま指先が触れるか触れないかの距離で滑る。
首筋で少しの間手を留めていたが、ゆっくりと眼を細めて頬に触れてきた。親指が下唇をなぞる。
「………て」
半開きの口で、聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの音量で、囁く。
声ではなく吐息だと言われた方が近い。
そんなかさりとした音も、この耳はきちんと拾える。
(悪魔の耳は、人の欲望を聞き取るためにある)
「ん、わかった」
取り敢えず尻尾の悪事は不問とし、身を屈めて眉間にキスをする。
普段よりは少しだけ、険しさのない顔をしている。
なめるように鼻先に触れて、間近の瞳を覗く。

ピントが合っていない。黒目が大きく見える。
水気の多い目だ。青っぽいから、余計そう見えるのかもしれない。

「ゆきお」
喉が渇きすぎたように、まともな声が出ない。
雪男が逃がすように吐く息が、触れる。
…あつい。
「……っ……な、に?」
ふやけた声を出しやがって。
そうでなくとも考えるのは苦手なのに、こいつ、俺のあたまを全部溶かしきるつもりか。
「キスだけで良いのか?」
じくじくとする指を握り締めて問う。
ああしてやりたいこうしてやりたいと頭の中でぐるぐる渦巻いているのは一旦棚上げだ。
今日は、今日こそはきちんと聞いてやらないと。
「…わから、ない」
息を詰める。
やはり焦点が合わないままの眼。
「わからない、けど…」
右手がTシャツの肩口を握る。

「…すきに、されたい」

駄目な兄貴のスイッチを入れるのなんて、簡単だ。
本当に、簡単なのだ。

色の白い首筋に齧り付いて、



そこから先は覚えていない。



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巡り合わせが悪い時というのは誰にだって有る。


日頃はエレベーターで移動する三階分を、何を思ったか階段で上りはじめた。
身体が資本やねんから、常に鍛えとけ。
そう言ったのは親父だ。
階段を使って移動するその無駄な時間に何か別の事が出来るならそちらの方が余程良いんじゃないかと思ったのだが、彼らはその辺精神論で生きているので、突っ込むと正座させられる。
そんな目に見えた地雷を踏むほど馬鹿ではないので、言わないでおいた。
言わないけれど、従いもしない。
面従腹背は性根の腐ってる人間のすることだと思いつつ、真っ当に世の中を渡り歩くためには絶対に必要なスキルだとも思っている。
二枚舌。
そろそろほんまに舌が裂けてしまいそうやわ。


自嘲というには幾らか開き直りが強いのかもしれない。
諦めている。
性格があまりよろしく育たなかったのも、伝統、封建、精神論の家風が肌に合わなかったからかもしれない。
若しくは、単純に反抗期と言う奴が長引いているだけなのか。
一番下は甘やかされて育つと言うので、それも原因かもしれない。
何れにせよ。
坊や柔兄達のような真正直な生き方はできない、ということだけははっきりしている。


…そろそろ疲れてきた。
まだ二階分しか昇っていないのに。
手摺りに頼りながら足を動かさねばならないのが苦痛だ。
『鍛錬が足らんからや、廉造』
———わかっとるわ。
けど、俺が、いつ、心の底から祓魔師なりたい言うたんや。
素質もない、目標もない。
それやのに、なんで俺まで付き合わされなあかんねん。

「あー! 煩わしいわぁ!」

誰も階段なんて使いたがらないのを良い事に思いっきり声に出してしまった。
響かない程度の音量に抑える努力はした。
けど、どうしても口に出さないと、音にしておかないと、爆発しそうだったのだ。
定期的にガス抜きは必要だ。
ガス抜きの出来ない人間は、いつか自爆するしかない。
———俺はそんなんごめんです。

確かにすっきりはした。
しかし、僅かな間すっきりするための代償はあまりに大きかった。

「………志摩君…?」

階段の上の方。
見間違えるはずもない人が教科書を抱えて立っていた。
誰も使いたがらない階段ではあるが、『誰も使わない』階段ではない。
そんな事ぐらいわかっていた。
分かっていて、配慮を放棄した結果がこれだ。

「奥村……せんせ…」

塾ではないので『先生』と呼ぶのはおかしい。
けど他になんて呼べば良いのかぱっと思いつかなかった。

「あの………」

言い淀んでいる。
階段の遙か上方に居る彼を、困らせている。
思わず半笑いになった。

疲労物質の溜まった足に鞭を打ち、十段近くを駆け上がる。
ぜぇぜぇとみっともなく息が切れたがそこは無視して欲しい。
何とかかんとか息を整えて口を開く。
「…聞こえてました?」
我ながら狡い質問をしたと思う。
はいと言おうがいいえと言おうが、気まずいことこの上ない。
「………あなたの予想通りです」
…どうやら彼の方が一枚上手だったようだ。
「ああ、そないですか…」
隙のない人である。

そうだ。
普段はどこで会おうと、どんな状態であろうと、隙がない。
避けてる、と奥村君は言ったがいざ目の前にしてみると、全く避けられているようには見えない。
———というか、『取り立てて避けられているようには見えない』だけかもしれない。
常日頃からこの人が世界を遠ざけているのだとしたら、
深く広い溝を以て、分厚い硝子の防壁を以て、世界に隔たりを作っているのだとしたら、
その外側での距離がどれだけ変わろうと、さして大きな変化にはなり得ないのだ。

何も言わずにじろじろと眺めていた。
一度言葉が途切れてしまったら、その先に何を切り出すのもおかしいように思えたのだ。
沈黙。
採光用の窓から入る日光で、埃がきらきらと舞っているのが見えた。
空気の流れが止まることはない。
風を感じるほど強くなくとも、空気は常に対流している。
「休み時間、あと二分ほどですか…。僕は移動教室なので、これで失礼しますね」
腕時計をちらりと確認する仕草がいやに艶めかしくてぞっとした。
衝動的にその腕を掴みそうになった自分を今度こそきちんと捕らえ(自分のコントロール一つ出来ない奴は馬鹿だ)階段を下りていく後ろ姿を見送った。

その首筋に何かの噛み痕があったことに悲鳴を上げなかった事を褒めて欲しいと思う。


その為に午後の授業を保健室でサボった事を考慮しても、まだ余りある。
一日に二度も同じ人に叫んでるところを見られてみろ。
みっともなくて埋まりたくなる。

保健室のシーツは誰かが使った後らしく、制汗剤のにおいがした。
女の子だったんだろうか。少し甘めのにおいだ。
昔はそんなことで幸せになれるぐらい簡単な奴だったはずなのに、一体俺はどうしたんだろう。

じりじりと神経が焼けている。

「どうなっとんねん」
枕に押しつけるように声を出す。
「どういうことやねん」
保健室の先生に、気付かれないように。
隣のベッドの生徒に、気付かれないように。
「あれは一体、何やったんや…!」

この前の姿と、
今日の姿と、

どちらかが嘘を吐いているはずなのだ。
そう考えなくては矛盾する。
そう考えなくては破綻する。

混乱しているのは、
なんのせいだ———

/

月の裏側を人間は観測出来ない。
自分に見られる物だけで、自分の知ってる事だけで、
世界を推測しているに過ぎない。

誰も彼も、

月の裏側を知らない。














というわけで続きの方ですね。別に続きじゃなかったんだけど……笑 2011/09/28(04/29格納)