人の海 水が合わない 砂を噛ませる / 人が人として生きるのに一番必要なのは何か。 時間。 金。 愛。 力。 色々な答えがあるだろうが、俺はここで敢えて「隙間」だと答えておきたい。…本音はな。 そら、建前ならコンマ一秒で「愛」って答えるようにしてありますよ? 女の子って、なんだかんだ言いつつそういうの、好きでしょ。 …と、姉が言っていたので多分間違いない。 胡散臭過ぎて俺は内心退いてるんやけど、そらまぁ建前なんていうのはいつも胡散臭さの塊みたいなもんやし当然の反応や思うわ。 …それはさておき、少なくとも志摩廉造という人間には隙間が必要だ。 物理的にも、精神的にも、人と隙間が欲しい。 電車通学をしたことがないので、満員電車にうっかり乗る事になったりすると心底吐き気がする。 あれだけの狭い空間に何人もの人間が押し込められている。 その状態を思い浮かべただけで喉まで何かがせり上がるぐらいには苦手だ。 一番簡単に言うと、息苦しい。 水中で息が出来ないような苦しさだ。 それが、不快なのだ。 猫が水に足をつけるのを嫌がるように、水気その物が、不快。 そういう気分の悪さである。 「面白い喩え方ですね」 先生は缶珈琲を啜りながら言った。 小さな缶を傾けて、唇をつける。 その些細な動作にそわそわしているのを悟られないようにするにはかなりの労力が要る。 飲み下すときに喉が動くのがいやに、生々しい。 「面白い、ですか?」 珍しくコートを着ていない立ち姿は、手足がすらりと長く見えた。 普段は見えないのであまり気にしていなかったが、こうして改めて見ると腰の位置が、高い。 身長自体はそんなに差があるわけではないが、足の長さが違う。 無遠慮な視線に流石に気付いたのか、先生は首を傾げ、「どうかしましたか」なんて無言で問いかけてきた。 …なんや、色々負けた気分やわ…。 「面白いですよ。人の海に溺れるのが嫌だって事でしょう?」 落ち込んでいたところに忘れかけていた話の続きをされる。 ひとのうみにおぼれる。 言葉にされると何だか奇妙な感じがした。 「ああ…そういうことなんでしょうかねぇ…」 今ひとつ納得がいかないまま返事をする。 と、先生が急に笑いはじめた。 「…俺、なんやおかしなこと言いましたか?」 身に覚えが無いので何となく不安な気持ちになる。 「いえ、そういう訳じゃないんですよ。ただ、『すごく上手い喩えだなぁ』と感心してたんですが志摩君にそのつもりは無かったようなので」 持ってきた座布団を出しそびれた感じです。二枚ぐらい。 山田君ですか!? …と突っ込んで良いのかどうか迷って、そのタイムラグの間に結局突っ込める間ではなくなったのでやめておいた。 笑いは生もの、間が悪ければ死んだも同然だ。 「なんていうか…先生に褒められるとこう、くすぐったいというかなんというか…」 「じゃあ今のは講師としてじゃなくて奥村雪男としての感心であると言明しておきましょうか?」 何やらツボにはいったらしく、まだおかしそうにしている。 眩しい。 「余計恥ずかし…いや、それはええです。それより、上手い喩えってどういうことですか?」 危ない危ない。 なんだか言ってはいけないことを言う所だった…気がする。 上手く踏みとどまって方向転換を華麗に決めた俺を誰か褒めてくれ。 「え? ああ…」 残り僅かだったらしい缶の中身を飲み干してことり、と机に置いた。 「人間って、何で出来てると思います?」 …哲学? それとも生物学的な話やろか。 こういうのを急に振られると困る。 大喜利的に考えてしまいそうなのを正道に引っ張るのが、実に難しい。 「え…えーと…細胞…とか…」 あれ。そう言えば先生は修道院育ちやとか言うてなかったか。(あくまでも奥村君の方が) じゃあもっとこう、神学とかそういう観点の話やったんか? あかんわ。 さっぱり読まれへん。 「志摩君は生物が得意なんですね」 相変わらずにこにこしてはるし。 褒め方がもう明らかに「先生」の褒め方やし。 なんや…授業受けてるような気分になってきたわ… 「僕の個人的な回答は『酸素63%,炭素20%,水素10%,窒素3%、以下カルシウム、リン、硫黄、カリウム、ナトリウム等の無機質が合計で4%ぐらい』なんですが———」 今のは丸暗記してるんかいな。 …頭の良い人の考える事はよおわからへんわ。 「誘導的な答えを挙げると『七割は水で出来ている』ですかね」 「あ、それは聞いたことありますよ。子供は八割水で、大人になると七割水…って…ああっ…!」 「ね? …だからはじめに聞いたときに『志摩君って面白いことを考えるんだなぁ』と思って感心したんです」 まぁそれは完全に勘違いさせていた訳だが。 「はぁ…確かに…そう考えると色々説明が付くというか…」 人間は、七割、水。 だから、人が集まると海になる。 人海戦術。 満員電車の息苦しさの元は「過剰な湿度」だ。 七割水で出来た壁に囲まれているのだ。 空気が重くもなるわけだ。 ウェットな人間関係。苦手。 湿っぽい話。苦手。 水、水、水。 梅雨時や夏の湿度が苦手な自分が、人間と距離を置きたいと考えるのもまた自然の摂理だったようだ。 …というかそれだけの事を一瞬で閃いた先生がすごいわ。 「肌に合わない、と、水が合わない、が近い感覚だなぁ、とか。水が合わないって、職場の人間関係なんかの事も含めて言いますから。———言葉って面白いですよね」 半分講義、半分会話。 「先生、やっぱり根っから先生って感じなんですね」 「え? えーっと…ああ…喋り方ですか…?」 やっと気付いたのか、じわり、と頬が赤く染まる。 「ええ、なんかオフが想像できへんような」 「それは失礼しました」 人と喋り慣れていない。というか。友達と喋ったことが無いんじゃないかと疑いたくなるというか ———立場に隔たりのある人間か、家族か、両極の人間としか喋ったことがないみたいだ。 失礼な妄想かもしれないが、当たらずとも遠からずな気がしてならない。 と、思っておきたい。 じゃないと、 「いや、文句やないんですよ」 基本的にただの生徒であって同級生ではない志摩廉造を見るのが嫌になるって話であって——— あーやめややめ。 話戻そ。 「けどそう考えると、不思議なんですよね」 ふと、言うつもりでなかった言葉が滑り出す。 頭の中で結論を出してしまおうと思っていたのにどうにも上手く纏まらないまま見切り発車してしまったのだ。 妙に開いた隙間を詰めるように流れ出していたとも言う。 「何がですか?」 何割かは『先生に聞けばわかるか』という甘い見通しも含め。 「俺ね、人に触られるん苦手なんですわ」 今まで誰にも言わなかった秘密のようなものである。 大家族の中で育っておきながら、人に触られるのが気持ち悪い。 流石に家族まで、という訳には行かないが、満員電車の不快感の半分はそこにある。 よく漫画なんかで同じ本を取ろうとして手が触れあって恋が始まる、みたいなべったべたな展開が有るが、 実際そんなことになろう物なら笑顔を貼り付けたまま後退し、相手が見えなくなった所で猛ダッシュで手を洗いに行く。 触りに行く方はまだしもマシなのだが、触られる方は本当に、気持ち悪くて死にそうになる。 湿った皮膚の感触とか、本当に、許し難い。 「さっきの話で言うと、水気が駄目って言えば良いんですかね」 「へぇ…意外ですね」 意外、と思われる程度には見られていたということで、 意外に見える程度にしか見て貰えていなかったと言う事だ。 まぁ最初から期待はしていなかったけれど。 「僕と同じ事を考えてる人が居るとは思わなかった」 …おおっと。 いやまぁ先生の場合はある程度予想可能やったけど。 「あれ、でも奥村君は」 「流石に家族までは…」 完全に一致、である。 「…でも、何が不思議なんですか?」 小首を傾げる動作が日頃の「先生」と噛み合わない。 謎の親近感からガードを緩めた様子の先生につい吹き出しそうになった。 あかん。 この人なんか懐くん早いぞ。 「いやその、なんて言うか」 にやにやを押し殺すのは中々きついものがある。 「先生に関してだけはやたらめったら触りたくて仕方ないんです」 ………。 ………………。 ……………………あ…れ? ぽかん、としている先生。 の、数倍ぽかんとしたい俺。 ちょっとまて。 確かに先に考えるのが煩わしいから喋りながら考えようとか思った。 それは思った。 けど、 誰がこんな超展開を用意しろと言った。 「あの…えーっと…」 しかもめっちゃ困ってはるし! いや分かるで? 俺が同じ立場やったらどん引きどころの騒ぎやないしな? この話の流れで何でそっちへ行くねん、大暴投どころの騒ぎやないで廉造。 「…はい…」 もうなんて言うか、何を言われてもこれは…仕方ないというか… 「確かにそれは…不思議ですね…」 結構真面目に答えてくれてるのがきつい。 すんません。 もうなんていうかすんません。 「ああでも…触るのはまだ平気だって言ってましたしね…」 なんとか理屈を通そうとしてくれる辺りがもうなんていうか申し訳なさ過ぎて埋まりたい。 「あの…先生…」 「ああ、でももしかすると」 謝ろうと思ったら割って入られた。 「………はい」 「水気を感じてない、とか」 思わず絶句した。 「君にとっての僕は、酷く乾いているのかもしれませんね」 さらりとしたその言葉は、確かに、砂よりも乾燥しきっていた。 口の中に押し込まれて、 噎せているのに、 喋りたいのに、 完全に黙らされるほか なかった。 / 水分嫌いの、 隙間を、 溝を、 ありったけの乾砂で埋める。個人的には真面目な志摩雪だったんですけど 志摩雪っていうよりは雪男ひどい話笑 2011/10/09(04/29格納)