【夜想】

「ただいま」 疲れ果てて部屋に戻ると、何だか蒸し暑い。 空調なんて大層な物は期待できないので仕方なく窓を開けようとしたら呻くような声が聞こえた。 一瞬ぎょっとしたが、何のことはない。一人部屋ではないのだから声が聞こえたところで恐るるに足りない。 多分、暑さで魘されてるんだろう。そう思いながら半袖の隊服を脱いでハンガーに掛ける。 いつも思っているのだが、安直に袖を落としただけの隊服は夏用とはいえとても暑い。 裾が長い為にとても熱がこもりやすいのだ。便利なんだか不便なんだかよく分からないこの服の扱いが難しい。 ズボンのベルトを外し、靴下も脱ぎ、やっと半袖のシャツ一枚とズボンだけになって夜風に当たる。 部屋は熱気で充満していたが、外は風がある分まだましだ。 「…はー…疲れた」 誰に言うわけでもない。 いつからだか人に言えないことが増えたせいで、独り言が多くなった。 まだそんな歳でも無いだろうにと我が事ながら苦笑いが出る。 結び目に指を掛けてネクタイを外すと、ささやかな開放感。 他の人に比べればネクタイに対する嫌悪感はない方だが、物理的に首が絞まっているのだからある程度は窮屈にも感じる。 『お前、ネクタイ結ぶの上手いな』兄はともかくとして、神父にも同じ事を言われた。 二人とも、そういう窮屈なのは苦手らしい。本当によく似ている。 「僕は、どうして似なかったんだろうね」 見た目が似ていないのは当たり前だ。そうではなくて、中身が。心根が、理屈が、行動原理が。 自分でもはっきりと分かるぐらい似ていない。神父とも兄ともわかり合えない法則で、僕は生きている。 ———世の中の誰ともわかり合えない理屈かもしれない。 究極、人間なんて相手を理解出来ないまま生きていくしかないんだから。 「暑い…」 ぐったりと机に突っ伏して風に当たる。 木の匂いともなんともつかないものが鼻腔を擽る。優しい感覚だ。 仕事明けはそういう微かな感覚ですら愛おしく思える。 今日もまだ、生きている。そうはっきりと感じられるからかもしれない。 「って…ちょっと老成し過ぎかなぁ」 自分でもそう思うのだから、人目には奇異な物とすら映っているのだろう。 たった15年の人生を猛スピードで駆け抜けると、自ずから、こうなってしまうんだけれど。 そう言えば、相対性理論の話が出ると必ず出てくるのが『双子のパラドックス』というものである。 光速に近いロケットに乗って遠くまで行って戻ってきた兄と地球で過ごした弟では、 兄の方が若いままで居る、という話である。これを聞く度に、何だか釈然としない思いを抱えてしまう。 物理学的な意味は分かるんだけれど、体感として、高速で移動している方が年を取らない、というのが不思議な感じがするのだ。 でももしかすると、兄は自分には分からないぐらいすばしっこく移動しているせいで老けないのかも。 なんて馬鹿げたことを考えてしまうぐらいには、疲れていた。 「このまま兄さんは老けないんだとしたら」 光速を振り切ってしまったら、もう年を取ることはない。 一瞬が限りなく引き延ばされ、周りの物が猛スピードで壊れていくのをぼうっと見ているだけの存在になる ———既に半分ほど物質界の法則に囚われない存在になってしまっているのだから、強ち妄想という訳でもない。 僕が。同い年の弟が物理法則に従って崩れていくのを、一瞬の出来事として観測する。 きちんとそれは、理解されることなんだろうか。 それとも、無数の出来事の中の一つとして、やはり記憶されずに蒸発してしまうんだろうか。 ふと、どうしても兄の顔が見たくなって椅子を引き、ベッドの傍らまで歩く。 窓から離れるとどうしても蒸し暑く感じるが、暫く風に当たっていたおかげでまだ耐えられそうに思える。 布団を半ば蹴散らしてしまっている兄は、額にうっすらと汗の玉を浮かせている。 首元も、多分触るとじっとりするんだろう。開いた口からは鋭すぎる犬歯が覗く。 寝苦しそうではあるが、比較的穏やかな顔である。 殺意を向けてくる悪魔以外に遭ったことがないので、何となくまだ、『兄は悪魔なのだ』という実感が湧きづらい。 頭ではそれはもう、十も百も承知しているのだが、いざ目の前にしてみるとどうにもただの人間としての兄ばかりが強く感じられて戸惑う。 他の悪魔と同じように、撃ち殺せるか。 いつも自問しては答えを見失って苦笑いする羽目になる。 いつかは答えを出さなくてはいけない。それは分かっている。 けれど、兄がまだ兄として自分の前に居る以上考える事は無駄なのではないかと ———少しばかり楽天的過ぎることを思ったりもする。 「兄さん」 声に出すつもりではなかった。 起きたらどうしよう。暫く微動だにせず眺めていたが、兄が起きる気配はない。 「全く…のんきなものだよね」 自分ばかりが余計に考えている。寧ろ、考えなくても良い事ばかり次から次へと考えてしまう。 同じ距離を短距離走として走るのと、障害物走として走るのとではどう考えても後者の方が時間が掛かる。 それを無理矢理同じタイムで走りきっているのが、今の自分だ。 思考をランさせるスピードが仮に兄の二倍だったとしても、ずっとこんな事を続けていられるとは思っていない。 どこかで、がたが来るのだ。 その時までにどうにか事態が好転していてくれればいいと願いながらも、 希望だ願いだといった代物は全くもって不確定な要素に過ぎないということもきちんと分かっている。 矛盾とまでは言えなくとも、どうにも噛み合わない物が頭の中で共存していることが、 多分、自分という人間を年にそぐわないように見せている。 どうして、自分は兄にも神父にも似なかったのか。 簡単だ。 もとから違う人間だったのだから、似るはずも無いのだ。 「もう少し、気楽に生きられるような性格だったら良かったのにな」 何の夢を見ているのかは分からないが、どこか幸せそうに笑い始めた兄の寝顔を瞼の裏に焼き、 窓硝子越しの夜に視線を遣る。薄く映り込んだ自分の顔は癖になった苦笑いを浮かべている。 ———駄目だな、僕は。 寝る前に調理場に下りて水でも飲もう。そこでもう少しだけ思考の回転が落ちたら、仮眠を取るために部屋に戻る。 今のままではとても、眠れそうにない。 「それじゃ、ちょっと行ってくるね、兄さん」 「どこ行くんだゆきお」 振り返ると、半分以上寝惚けた様子で目をこすっている兄が視界に入った。 「え、ああ…起こしてごめんね。ちょっと水飲んでくるから」 「おれも行く…のどかわいた」 不快そうに首を軽く掻きながらベッドの外に足を下ろす。 「まだ三時だよ?」 「お前起きてるじゃねぇか」 「まぁそうだけど」 ふあぁ、と大きく欠伸をすると、「ほら、さっさと行くぞ」とか何とか言って兄は僕を追い越して部屋のドアに手を掛けた。 こういう事をするから、分からなくなる。 色々と考えてることがあったはずなのに、いつの間にか吹き飛ばされている。 「待ってよ兄さん」 扉を閉めて先を歩く兄を追いかける。ああ、だから兄の方が『年を取らないまま』なのか。 そんな風にぼんやりと思いながら、階段を下りた。

雪ちゃん大いに考える。笑 いや、茶化して良いところじゃないんですけど、考えすぎて潰れそうな雪ちゃんが好きなので… 兄さん最優先過ぎる雪ちゃんは一体自分という物をどこに置いてるのか…心配で… 2011/06/22(8/20格納)