※爪の話。百合。凄く百合。






 しゅるしゅる、とあの独特な音を立てて彼は爪を研いでいた。
「……爪切りの方が楽じゃないっすか?」
 人にやって貰うならまだしも、自分でやるのは面倒極まりない。利き手じゃない方はまだ何とかうまく出来そうだが、利き手側を整えるのはえらく大変そうだ。
「馬鹿を言え。それで3Pを外すなんてあってはならんことだろうが」
 そう言って神経質そうな仕事ぶりで爪を整える。少し、猫背気味に。
「うーん……まぁ俺は別に緑間っちほど遠くから投げたりしないっすからねぇ」
 爪のかかりがどうの、なんて言われてもあまり体感した覚えが無いので何とも言えない。
 そもそも爪をどうこうするタイミングというのが撮影の前後だったりするので、感触よりも見た目を重視した整え方になるのである。
勿論、スポーツをやっていることは向こうも承知しているのでそんなに長く伸ばしたりはしないけれど。
「点数が多い、ということはそれだけ難しいということなのだよ」
「ああ、それ前も聞いたっす」
「……だから、倍ほど気を遣って丁度ぐらいだな」

 俺の頭が悪いのかも知れないが、冷静に考えても『倍の苦労』をして得点は『五割増し』にしかならないのなら、苦労せずに普通に二点のシュートを入れれば良いんじゃないか、
なんて思ったわけだが。それは言わぬが花、というやつなんだろう。

「けど緑間っち、トップコートとかはしないんっすね」
「……む?」
 興味津々、という顔である。
 時々この男の食いつく所がわからなくて困る。
 いや、別に食いつかれたことに関しては一向に構わないのだが、この男の本腰を入れた話というのはどうにも返事をしづらいものが多いのでなるべく適当に流して欲しい、
というのも本音だったりするのだ。
「やー、撮影の時なんかはよく使うんっすけど、透明のカバーみたいな奴で、」
 そう言えばメイクさんが鞄の中に落として結局見つからなかったのが無かったか。
「えっと……あ、あった。これこれ」
 あんなに必死に探していたのに見つからなかった癖に、こんな時は一瞬で見つかる。これが緑間真太郎風に言う所の「運命なのだよ」ってやつかもしれない。
「ふむ。透明だな」
 硝子の容れ物を軽く振ったりしながら中身を確かめている。黒っぽい刷毛がそれにあわせて少し傾いたりするのをつられてぼんやり眺める。
「だってネイルカラーを邪魔しないように保護するだけの機能っすからねー。色は無い方が良いでしょ?」
「で、これをどうしろと?」
 どうしろって、どういう。俺はただ具体例として挙げただけで、たまたま実物を持っていたから見せただけの話で。別にこれをどうしろといった覚えはないのだよ。
「え、いや、だから爪が割れたり欠けたりするのを防ぐ為にこういうのする人も居るって、メイクさんから聞いたところなんっすけど、」
 けど。なんだろう。その目はあれですか。ハウ・トゥー・ユーズを実地で教えろって目ですか。
 ていうか明らかにそうなんだけど、あー困ったな。なんでこういうところで察しが良いんだろう、俺。気付かないふりで話を切れない自分が時々嫌いになる。
「……良かったら……つけてみます? シュートに関係しにくい方に」
 ぱちぱちと瞬きをして、首を傾げる。
「出来るのか?」
「まぁ、見よう見まねっすけど……初心者よりは出来るかなって」
 小指一本ぐらいなら別に大丈夫だろう。少々失敗しても大したことにはならないだろうし、それで満足してくれるならきっとそれが一番良い。
 しかし面倒な人だなぁ、と思うぐらいは許して欲しい。いや本当に。
 やりたいことは素直にやりたいと言ってくれればいいのにわざわざ相手が察するのを待つのはどうなんだ。
 それともあれだろうか。本人ですら、自分が何をしたいのかわかっていない、とか。
(うっわ、なにそれ最高にめんどくさい)
 そんな緑間真太郎という男にこうして関わらざるを得ない自分の外れクジぶりときたら。
「ほら、手、出して下さい?」
 大丈夫、大丈夫。生きろ黄瀬涼太。モデルだろ。笑えるだろ。目の前にカメラがあると思え。
「……ああ」
 こわごわ、と言った様子で差し出された手は気味が悪い程綺麗だった。裏返せばボールに触れてできたマメとかそういうのもあると思う。
 ていうか、あってほしい。けど、こうして手の甲だけ見ていると、何かの細工みたいでぞっとしたのだ。

 手タレ、という職業がある。
 手だけを売り物にしている人で、彼ら彼女らの手の美しさは本当に凄まじい。ハンドクリームからグローヴから、ありとあらゆるものでその手を守って、商売を成り立たせている。
 そういう人の手と、なんだか似ていると思ってしまったのだ。
 失礼なことだ。
 あの人達の血の滲むような努力を完璧に無駄だと言ったに等しいのだ。内心で顔を覚えていない彼らの綺麗な指先に謝っておいた。

「……黄瀬」
 催促するのと心配するのと足して二で割ったような調子だ。
「あ、ああ、ちょっとぼうっとしちゃってただけっすから」

 蓋を開けると嗅ぎ慣れたにおいがした。
 いつも彼女らがするように小瓶の淵で余分な液を落として、爪に刷毛を乗せる。
 するする、と思ったよりも簡単に塗り終えて、爪の縁の部分に軽く塗る。『こうすると剥がれにくくなるのよ』とそばかす顔のメイクさんが言った。よく当たる三人の内の一人だ。
 しかしこんな風に他人の手を触ったりすることなんて一生の中で何回有るんだろうか。
 その貴重な何回かの内の一回を大して仲の良いわけでもない(や、仲悪いってんでもないですけど)チームメイトで消費する自分の人生って、と思わない訳では無い。
 逆に言えばこうして大人しく手を差し出している緑間っちにしたって人生で何回有るかわからない『他人に手を差し出す』なんて経験を俺で消費してしまっているのだからどうにも残念なことだ。
 可哀想な俺達。

「これで終わりっすけど、暫く乾くまで触っちゃ駄目っすよ」
 生乾きの時はぶより、と指紋が付いたりするのだ。一回やって怒られたのでよく覚えている。
「具体的にどのくらい放って置くんだ?」
「え、えーと……湿気てるときは乾きにくいんだっけかなぁ……よく覚えてないっすけど、まぁ五分もすれば大丈夫じゃないっすか?」
「ふむ」

 指を翳して他の爪との差を探しているようだ。
 そこだけきらきらと光が反射する小指の爪。違和感があるような無いような、変な感じ。
 試しに自分の指を眺めてみたが、あそこまで気味の悪い造作ではなかったし、爪の形もそう良い方ではなかった。『ちょっと塗りにくいのよねぇ』と愚痴を言われるのも仕方がない。

「これで保護できれば確かに便利かもしれないが」
 散々自分の爪とにらめっこしてようやく気が済んだらしい。
「かもしれないが、ってことは何か不満があるんっすね」
「……毎回お前にやって貰うわけにも行かんからな」
「………ああ、そうっすね……」





 その数年後に彼は見事奴隷(と言うと失礼なので相棒兼召使いということにしておこう)を獲得し、透明な硝子みたいな爪で俺の前に現れた。
「それ、こないだのチームメイトにやらせてるんっすか?」
「……面白がってやめないのだよ」
 どことなく困ったような調子で言うのが面白い。
「そりゃまぁ……なんかそんな感じしてたっすけど……」
 そうか。新しいチームメイトは不思議ちゃんをものともしない強者だったか。
「笑い事じゃない」
「あれ、俺笑ってました?」
 おかしいな。そう見えないように気を付けてたのに。
「目がな。完全に馬鹿にしていたのだよ」
 流石に長い付き合いだとばれますか。恐れ入りました。
「そりゃ悪かったっす。けどそうかぁ。世の中にはどんな物好きが居るかわからないな」

 この口数少ない姫に硝子の靴を履かせたがる男が居るなんて、不思議な世の中だ。
 正に、割れ鍋に綴じ蓋、という奴だろうか。

「しっかし……えらく背の低い王子様っすねぇ……」
「なんのことなのだよ」
「いえ、別に」





【指先に硝子の靴】




黄瀬と緑間は百合です百合。身長190レベルだけど、百合です百合。
2012/07/10(07/15格納)