「アラベスクか」
 許可を取ったわけでもなく、勝手に音楽室のピアノを弾いていたら見覚えのある男が部屋の隅に立っていた。
 確か赤司、と言ったか。同じバスケットボール部の部員だ。
 何百と居る部員の中でどうしてこの男だけ覚えていたのか。理由は簡単だ。部活を離れてもこの男は有名人なのである。
 やれ将棋部の部長を相手にあっさりと勝ってしまっただの、中間テストの成績がずば抜けて良かっただの。とにかく噂に事欠かない男なのだ。
「詳しいのか」
「いや、有名所しかわからないよ」
 しれっとそんな言い方をしたが、普通の男子中学生でクラシックピアノに詳しい者は少ない。
自分が弾くのでない限り、ほぼ曲名など知らないと思って間違いないだろう。
 試しについこの間合格を貰ったところの曲を弾いてみる。
「タランテラ。ショパンだね」
 自信のありそうな口調だ。
「……ピアノを弾いたことは?」
「前に少し。君ほどうまくはないよ」
 上手い、だろうか。
「同年代の男の中では抜群に上手いと思うよ。歌わせ方が」
 そう言われるとなんだか気恥ずかしかった。先生には悪いところを直されるばかりだから、特別上手いとおもったことはないのだ。
「そうだろうか」
 すると彼はすたすたと歩いてきて、椅子の真横に立った。ピアノの縁に手を置いて少しだけ前屈みに視線を下げると、
「少なくとも僕は好きだな」
 などと、俺の目を覗き込むようにして言った。
「っ、そう、か……」
 思わず指を膝の上に戻す。
「うん。もっと聞きたかったけど、難しくなるだろうね」
 心底残念そうに言う。
「難しくなる?」
「そうだよ。だって君、バスケ部だろ? 突き指とかしたらしばらく弾けなくなるじゃないか」
 指を見つめる瞳の妖しさに思わず喉を鳴らした。
「———赤司、」
「とは言え、その指の扱いは君の自由だからね。僕があれこれ言うことじゃない」
 にこりと笑って彼は背を向けた。
「怪我は……しないのだよ」
 呼び止めるような調子になったのはわざとじゃなかった。自分でもなぜそんなに必死だったのか、ちょっとよくわからない。
「うん?」
 けれど、呼んだ方に理由がなくても呼び止められれば振り返るものだ。
 赤司はこちらの言葉を待っている。
「どの道怪我をすればバスケにも支障が出る。だから、怪我はしない」
 ぱちぱちと瞬きをする。
「物事に百パーセントはないけれど?」
「限りなく百パーセントに近付ける努力はできる」

 どうやらその答えが気に入ったらしい。
 赤司はにこりと笑い、
「次に機会があれば幻想即興曲を聴きたいな」
と言った。


 ———それが、自分の覚えている中で一番古い思い出なのである。



【即興曲】


「なに、真ちゃんその曲十八番なの」
「まぁ、そうといえばそうだな。今までで一番真剣に練習した曲なのだよ」
 ふぅん、そう。
 つまらなさそうに言った後でぼそりと、
「俺は真ちゃんのピアノ、好きじゃないな」
などと失礼極まりない暴言を吐く。
「嫌なら、聞かなければ良いだろう」
 息を吐いて、中断した所から弾き直す。
 聞き慣れ過ぎた音の並び。
 感情のコントロールができるようにと母はピアノを習わせた。
だから、むしゃくしゃしたときも、悲しかったときも、それに見合う曲に託して肩の荷を下ろす。そんな風に、これとは付き合ってきたのだ。
 勿論、ピアノの練習そのものにストレスが溜まることもあったのですべてがよしとは言えないが、それなりには良かったと思っている。

「だってその曲弾いてるときは絶対俺のこと見てくれないだろ」

 また半端な所で切られるのが嫌でそのまま弾きつづける。

「昔のチームメイトの話してるときもそうだ。人間誰だって過去に浸りたい時があるだろうけど、今の相棒を前にそれは無いんじゃない?」

 あと、ワンフレーズ。

「……俺は、俺と———俺達とバスケしてくれる真ちゃんが好きだよ」
 弾き終えるのと同時に手の甲を指で押される。
「いつまで引きずるんだよ、それ」

 未だにこういう時の高尾の目に慣れない。
 憎悪にも似たその鋭さは、コートの中で見るよりも格段に凄味があった。

「試合中は、お前達のことしか見てないと思うが?」
「………あーそーだな。悪かったよ。つまんねー嫉妬なんてすんなってか」
 どうにも収まりの悪い単語があったように思われた。
「嫉妬」
 この文脈で言われたにも拘わらず、何か違う所に対して言及されたような。それもまぁ、こちらの勘違いかもしれないが。
「おかしいよな、同じ指なのに。バスケしてるときは絶対に俺が守ろうって思うのに、」

 今はへし折りたくてたまらないな。

 にこにこと笑いながら。けれどその目は酷くどんよりと曇っているのだった。






高尾はきっとナチュラルに病んでる。緑間には自覚がない。赤司様には悪気がない。
2012/07/20(08/07格納)