蝉が煩い。実に煩い。思わず「今年の蝉は質が悪い」とか言いたくなる。
しかし奴らが煩いのは毎年のことなので、今年に限らず常に質が悪い。

自動販売機に有る中で一番か二番ぐらいにありふれた炭酸飲料のボタンを押す。
ごとりという音と共に落ちてきた缶入り飲料を拾い上げると、指先だけがとても冷たくなった。
頬に押し当ててみると幸せなんて存外安いもんだぜ、なんてかっこつけたいぐらい冷たい。
「あー、生き返るー」
ということは、さっきまでは死んでた、と思って貰って間違いない。
ぷしゅ、というこれまたお決まりのような音を立ててプルタブを引き、
ぱちぱちと泡が弾けるのに合わせて飛び散っている威勢の良い中身に口を付けた。

【Weekend dead end】

男鹿の抜きの休日は久しぶりだった。 いや、もう久しぶり過ぎて涙が出そうなぐらい久しぶりなのだ。 ここのところ毎週毎週やれベル坊が暑苦しいだのゲームやらせろだの漫画貸せだのと 何かしら理由を付けて人の家に押しかけてきた訳だが、 今日だけはすっかりぽっかり予定が空いたわけである。 (「忙しいから!」と電話を早々に切った、という事実はまぁ忘れることにして) 空っぽなのだ。真っ新なのだ。何をしても良い休日。すてきな響きじゃないか! そう思ってサンダルにTシャツとハーフパンツで外に出てみた。 が、しかし。暑い。異様なほどに、暑い。 朝方はまだ良かった。蝉は確かに煩かったがそれなりに風もあって時々涼しいなぁなどと思えたのだ。 日陰もそこそこ有ったしな。 だが携帯のディスプレイに従えば今は二時ちょっと過ぎだ。 小学生の頃の朧気な知識を頼りにすると、一日で一番暑い時間帯に突入してしまったことになる。 そりゃ蒸し暑くもなるよなぁ、と思いながら冷たい中身を流し込む。 「つーかさぁ、男鹿……っじゃねぇよ!」 違う。今の無し! 所謂事故と言う奴で、寧ろこれはあくまでも口癖の話であって、 あれだ、決して男鹿に対する呼びかけだった訳じゃ無くて『つーかさぁ、男鹿』でワンセットの口癖なんだって、 「———誰に言い訳してるんだよ」 冷静にはなった。 しかし、一気にテンションが下がったのは確かだ。 「よし、忘れる。忘れた。縁切った」 振り払うように頭を左右に振った。 勢いの無くなってきた炭酸をちびちびと飲みながら歩く。 特に目的もなく家を出てしまったせいで老人の徘徊がごとくとても怪しい。 我ながら時間の潰し方が下手だなぁと思う。 仕方ないじゃないか。大体時間は男鹿に潰されてしまう物であって、持て余した事なんて殆ど無いのだ。 ———そこまで考えて、その恐ろしさに背筋が寒くなった。 外は無論暑いままだ。けれど、三度ぐらい体感温度が下がる。 「…よし、帰ろう。帰って速攻寝よう。偶にはだらだらするのも悪くないさ」 まぁその前にシャワーを浴びて半日歩き回ってかいた汗を流さなくてはいけないが。 空になった缶を公園のゴミ箱にシュートする。 運動神経は特に良い方ではないのでそんなに遠くから投げたわけではない。 寧ろこれできちんと入らなかったら反省会だ、という距離から投げたので入って当たり前ではあった。 だがそういったささやかなことに対しても 「あ、うまくいった。ちょっとラッキー」とか思える性分なので、人生得してると言えば得してるかもしれない。 幸せが安い。 でなきゃ、男鹿とずっと一緒には居ないだろう。 来た道を折り返し歩けば良かった物を何を間違ったか 『まぁ折角だしぐるっと回って別の道から帰るか』などと馬鹿なことを考えた。 考えたせいでどうなったかというと、 「………古市君」 えらく懐かしい顔に遭ってしまった。 「………よう、三木」 元気か? 俺はそこそこ元気だよ。けどちょっと今日暑くて参っちゃってさ今帰りなんだよ。という訳でまたな。 それだけ一息で言い切って逃げようとしたが、 「まぁまぁそう急がなくてもいいだろう。ちょっと時間ない?」 と相当強い力で肩を掴まれた。 「あんまり無い気がする」 やばいこれ男鹿がやるのよりも地味に痛い。指がちょっと食い込んでる気がする。 「ちょっとで良いよ。近くにワイキキ有るから」 10cm以上の身長差(この場合の身長差は当然向こうの方が低いって事だぜ)がある相手に脅されて勝てない。 非常に残念だが、それが古市貴之という男なのである。 / 「ああ、僕が付き合ってくれって頼んだんだから奢るよ」 ポテトのMサイズとハンバーガー。それにコーラのL。内心、また炭酸かよ、と思った訳だが じゃあ他に何か飲むか? でもアイスコーヒーってキャラじゃねぇわな、 なんて結論が出てしまったせいで普通にコーラになった。 せめてさっきまで飲んでいたのがサイダーだった事が救いだ。 だってほら、あれだ———味がちょっと違う。 「ああ、うん」 「思ってたより空いてて良かったね」 どの程度の見積もりをしてたのかさっぱりわからないこちらはどう返した物か分からない。 確かに満席には遠いが、かと言ってがらがらという訳でもない。 三木の分のチーズバーガーとポテトとアイスコーヒーが揃ったので二人分トレーに載せて運ぶ———三木が、な。 男鹿と一緒だと大体自分が運ぶことになるので何だか手持ちぶさたである。 隅の方の四人席に向かいで腰掛けて、さてハンバーガーに手を伸ばしたわけだが、 「君が一人で居るなんて珍しいね。喧嘩でもしたの?」 と機嫌が良いのか悪いのかさっぱり分からない満面の笑みで言われたせいでぴしりと空気が固まった。 「…あのなぁ三木。俺だっていつも男鹿と一緒にいる訳じゃねえんだぞ」 「それもそうだね」 「………」 この間会って以来、三木はどうも俺にささやかな敵意みたいなものを向けてるような気がしてならない。 勘違いならそれで構わないのだが、数々の修羅場を潜らされてきた(主に男鹿のせいで) 俺の第六感が逃げた方が良いぞ、と言っている。 それはもう、蝉と張るぐらい煩く。 「…お前、男鹿ん家知らなかったっけ」 間が持たないな、と思いながらも何とか話題を見つけようとする。 しかし何でも良いからと引っ張ってきた話題が男鹿って。 我ながら会話センスがなさ過ぎてどん引きだ。 「知らない。だってほら、君たちは家が近かったけど僕はちょっと遠かっただろ?  だからいつも近くの十字路で別れてたじゃないか」 そう言えばそうでした。けど俺抜きで男鹿と一緒に居たことだって有るんじゃないのか。 そう思って一生懸命記憶を手繰ってみたがよく考えると 『自分が居ないときの男鹿の行動』まで逐一把握してる訳じゃ無いんだから思い出せるはずもなかった。 「ていうか君たちほんと変わらないね。ずっと一緒に居るんだ」 そこは誤解だ。別に四六時中一緒に居るというわけではない。 けどまぁ、会わない日の方が少ないのは認めるが。 「家が近くて学校ずっと一緒だったら大体こんなもんだろ」 ハンバーガーを味の分からないまま片付け、本日二度目の炭酸を啜る。 「そうかなぁ。だって君たち誰と居てもすごく二人の世界だから」 噎せ…なかった。偉いよな、俺。 だって今噎せたら間違いなく向かい側の三木にコーラをぶちまけることになってただろ?  代わりに気管に入りかけて今瀕死だが、二択ならこっちで正解だ。 「ふ…二人って、そりゃ勘違いだろ。それに今はベル坊だって一緒なんだから」 喉にコーラがへばり付いているような気持ちの悪い感じ。 甘い飲み物にしなければよかったと思ってももう遅い。 後悔先に立たず、だ。 「君にとってはね。男鹿ってさ、君が居たら君にしか話しかけないんだよ———他にどんな人間が居ようと」 それはハッキリ言って三木の勘違いという奴である。 別に三人で連んでいた時だって男鹿は多分俺にだけ話しかけてた訳では無かった、と思う。 多分。あれ、なんか自信がなくなってきた。 いやでも男鹿が三木に話しかけてた記憶はあるからやっぱり三木の勘違いだ。 大体現実的な話じゃ無いだろ。 何人もの人間が周りに居るのに、俺とだけ会話してたら話が進まないじゃないか。 「流石にそれは無いだろ。確かに男鹿はそんなに喋り好きって感じじゃないけど」 別に人見知りの傾向があるとも思えないしな。まぁ目つきは常に良くないが。 「じゃあ言い方変えようか。男鹿は大体チャンネルを君にしか合わせてない。 というより寧ろ、君しか男鹿のチャンネルに合わせられない、かな」 目の前の男は悠々とアイスコーヒーを飲んでいる。 三木の見ている世界と俺の見ている世界には随分と大きなずれがあったらしい。 大きすぎて、ずれ、だと表現するのもなんだか妙な感じがする。 ずれているとかそういうレベルじゃない。じゃあ何だ。 断絶? 「仮に誰に対しても言葉を投げられれば返すのだとしても、意思疎通の精度は限りなく低い」 確かに言葉数の少ない男は格好いいけどね。などと、最後に思い出したように付け足した。 それは言葉数の多い俺に対する当てつけか、と茶化しておきたかったがそういう空気でもない。 「君にとってはそれで十分理解できるのかもしれないけど、他の人間にはそれでは足りない。 けど彼は大体に於いて君が分かってくれるかどうかを基準にしているんだよ」 なんと切り返せば良いのだろうか。 誤解を招かないように、けれど思っているところが伝わるように…? 「だから、君にだけ話しかけてるように見える」 言葉にひやりとしたものを感じて喉が詰まるような思いをする。 「気のせいだよ、三木。気のせいだ」 紙コップについた水滴のせいで手がびしょ濡れになった。が、それも構わず慌ててコーラを吸い込んだ。 暫く何も言わないで良いという免罪符が必要なのだ。 「………憧れ、畏怖、反発、何でも良い。多分君に見えている男鹿辰巳と周りに見えている彼は全然別の人間だよ。 だから、君には分からないんだ」 黒目がちの眼が、す、と細められる。 「君の居るところがどれだけ、特別なところか———君は自覚がなさ過ぎるんだよ」 自覚、は、確かになかったかも知れない。 しかし薄々感づいていなかったわけでもない。 どれだけ関わる人間が増えても、男鹿の奇妙な内向きさが変わる気配はない。 そして、その内側に半ば巻き込まれるような形で俺の居場所が設定されていることも。 寧ろ人が増えれば増えるほどふとした瞬間にあいつの視線は反転する。 外部に対する興味をなくすのだ。 それをフォローするために色々と気を遣っているこちらの身にもなれよ、 と偶に思わなくもないがそれこそ言ったところで無駄なのだ。 あいつは。 男鹿辰巳という人間は他人に理解されたいと思っているようには到底見えなかった。 それこそ拳で語る、などと言う非常にレトロな手段は持っている物の、 それ以外のツールを利用しようという意思が存在しないように見えた。 言葉は使うが、決して得意だとは思えない。 ベル坊が男鹿の「言いたいこと」をどの程度感じ取っているのかは分からないが、 あの子にきちんと伝わっているとすればそれは言葉以外の部分で理解させているからだ。 じゃあ、俺はどうなんだと言われれば話が少しややこしくなる。 俺は別に殴り合うことも無く(暴力反対。そんな野蛮な事をする必要はないのである) かといってやっぱりあいつの言葉が足りているわけでもない。 単に語彙力が足りない男鹿の「言葉遣いの癖」を知っているだけで、 伝えようと必死になっているときとそうでないときの落差を知っているだけで、 要は、 経験値の問題だ。 目を見れば大体何を言いたいか分かる。とまでは言い過ぎだが、 要するに「こういうときどう考えているのか」を予測できる程度には一緒に居ただけの話なのである ———ぐらいの解説しか付けられない。 だがそれだと重大な矛盾が発生する。 その予測のベースになるべきデータはいったいどこから来たのか、説明が付かない。 若しかすると分かったと思いこんでいるだけで、実は『全く分かっていない』のかも知れない。 だからそれについては考えるのを棚上げにして、今の今まで生きていたのだ。 考えても無駄なことは、考えない主義だ。 「………たまたま、ガキの頃から一緒だっただけだって」 流石にストローに食らいついていられる限度だろう。諦めと共に口を開いた。 「本当にそう思ってる? 君以外の誰かが同じ立場だったらきっとその人もそうなったろうって、言い切れるの?」 ぱらぱらと頁を捲るように何人かの顔を浮かべてみたが、よく分からない。 「いや、試してみないことには何とも言えないだろ」 彼らは今まで男鹿と出会わない人生を送ってきたことであの性格なり何なりを獲得しているのだ。 なら、もし会っていたら、という仮定自体が無意味な物になる。 「中学生の頃には既に、疎外されてたよ」 三木は自虐的な笑みを浮かべた。 「あの頃はそれでも楽しかったと思ってた。そう思いたかった。 けど、後から冷静になって考えてみると、僕は異分子だったんだ」 「そんなことねぇだろ。ていうか三木、それ絶対思い込みだって」 「建前かな。それとも本心からそう思ってるの?」 喧嘩するときのような殺気を感じる。皮膚がびりびりと痺れる。もういいからさっさと逃げろ。 第六感はずっとそう命令し続けている。 「何の建前だよ。大体男鹿だってちゃんとお前の事友達だと思ってるって」 「…じゃあ何。彼は君の事は友達だと思ってないってこと?」 は? なんだって? 衝撃のあまり一気に頭が真っ白になったので、周囲の状況の把握からし直さなくてはならなかった。 半ばさめてぐったりとしているフライドポテト。トレーに水溜まりを作っているコーラ入りの容器。 食べ終えたハンバーガーの包み紙。三木。客のそこそこ居る店。気まずい会話。 で、俺が何だって? 「もし僕が友達扱いされてると言うのなら、君との関係には別の言葉が必要だ」 別のも何も友達は友達だろ。一緒に飯食ったりだらだらしたりするような、そういう。 「仲の良い友達と仲の良くない友達が居るって言いたい?」 違う、そういう意味じゃない。そうじゃなくて、もっと、 「じゃあ試しに男鹿に『明日から友達やめようぜ』って言ってごらんよ。血相変えて問い詰めてくると思うよ?」 どうしてそういう話になるんだ。 「なぁ三木。根本的に勘違いしてると思うんだが」 「けど、仮に僕でも良いしまぁ彼の周りに新しく人が増えたならその人達でも良いんだけど、 その中の一人が『明日から友達やめようぜ』って言うだろ? 男鹿ならなんて言うか君は分かるんじゃないの?」 『ふーん、そうか』 良くてその程度の反応だ。基本的に来る物は拒まず去る者は追わず。 どっしり構えてるんだか何も考えてないんだかよく分からないが、多分そんなところだろう。 「おかしくないかな」 「どこが」 「君だけは、『引き留め』られるんだよ?」 「仮定の話だし、実際どうだか———」 「じゃあ、試す?」 挑むような、目だった。 そこで挑発に乗って『ああ試してやるよ』と言うのは男鹿の仕事で、俺はというと、 「気が向いたらね」 と言ってお茶を濁すことが本分なのである。 三十六計逃げるにしかず。正面切ってぶつかるのは強い奴にしか許されていない。 「相変わらずだね君は」 「人間そう簡単に変わらないからな」 「ふーん、そう」 三木の返事と被さるようなタイミングでポケットの中の携帯電話が振動する。 実を言うと、ずっと嫌な予感はしてた。 今までも話の合間に細かく携帯が振動していたのだ。 メールだろうから後で纏めて見よう、と思って放置していたんだが、これはあれかもしれない、あれだ。 噂をすれば何とやらだ。 こちらの顔色が悪くなったのを見逃してくれる三木ではなかった。 「大丈夫? というか電話、出なくて良いの?」 「ああ、うん、多分大丈夫だ。それよりそろそろ時間かなぁ、とか、」 「出てきたら? 僕は別に待ってるし」 暗に、まだ帰って良いとは言ってない、とプレッシャーを掛けられた。 早足で自動ドアを通り抜け、サブディスプレイの表示を見る。 男鹿辰巳 確認するまでもなかった。 「もしもし、何だよ急に。俺今日忙しいって言ったよな」 そして今朝方は返事を聞かないように神速で切ったのだ。 『へぇ、そうか。俺よりも大事な用事か』 「世の中にお前より大事な事なんてごまんとあるわ!」 というか、多分こいつのこういう物言いが誤解を招いている。違うのだ。 こいつは単に語彙が少ないだけで、だから適切な表現が出来ていないだけなのだ。 「で、何。忙しいから手短にしろよ」 さっさと戻らないと三木に何を言われるか分かったものでは——— 「帰るぞ」 背後から耳慣れた声が聞こえた。ちょっと待て。今俺は電話してたんじゃないのか。 何でお前ここに居るんだよ。エスパーか。あ、違う、アランドロンか。 「いや、帰るぞ、じゃねぇよ。俺はまだ用事が残って」 「大丈夫だよ、俺が言ってやるから」 「何がどう大丈夫なのかさっぱり分かりませんよ男鹿君、マジで」 大体言うって何を。言うって誰に。その辺しっかり事前に相談しといて貰わないと。 「つかなんでお前ここだって分かったんだよ」 俺の真っ当な疑問は無視され、手を引っ張られてはいるものの一応店内へは戻れた。 敢えて言おう。考え得る中で最も悪い展開だ。 「やぁ男鹿」 「ああ、三木えっと俺にも事情がよく分からないんだけど」 「こいつ悪いけど返して貰うわ」 男鹿、頼むから言葉は選んでくれ。 「そんな理不尽な一言で僕が引き下がると思う?」 そして三木の発言があまりにも尤もだ。 「さぁな。けど俺のダチなんだから」 俺がサイユウセン、だ。 ガキじゃないんだから。 お気に入りのおもちゃを取られたことに腹を立てている五歳児じゃないんだからさぁ、男鹿。 そんな怖い顔をしても駄目な物は駄目だって。 「ね、古市君。言った通りだろ?」 刺さるような視線に挟まれて、一体何と言った物か、俺には到底想像も付かなかった。 なつのさかりの あくむのような しゅうまつ。

古市君と三木君の話はいつか絶対書きたいと思っていたので アニメで出てくる、というタイミング的に丁度良いかと思って しかし全く関係のない話になってしまったというかなんというか 古市君は無自覚に男鹿優先過ぎてあの子どうかしてるぜ… 2011/08/19